2018年4月 7日

まあまあいい山から降りて、自分の山を探す

staring-at-moutain

1月にあった話。年明けで友人に会いに行った。

約束の時間よりも15分早く着いたから、時間つぶしに困ったとき、ちょうど電話通信があった。見覚えがある。確か8年前に転職活動してた時に登録した人材紹介エージェントだった。

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それからも年に数回、募集案件をメールで紹介し続けてきた。担当者が8年間の間で何人も変わっていても、そのメールは途絶えることがなかった。最初のうちは丁寧に「転職は当面考えていない」と返信したが、最近はもうほとんど未開封のままにしておいた。

でもいきなりの電話は何なんだろう、初めてのパターンだ。
と思いながら、普段なら留守電にしたはずだが、今はちょうど時間も余っているし、電話に出てみようと思った。

「もしもし?」
「あ、ニハウ、シーピアオシェンスンマ?」と女性の声が聞こえてきた、綺麗な中国語だ。
(「もしもし。こんにちは、朴さんですか?」)

「はい、そうです」
「私、〇〇エージェントの〇〇と申します。今ご都合はどうかな?少々お時間いただけますか?」

とこう訳しているけれど、中国語はビジネスのシーンでも日本語ほど相手との距離が遠くなく、特に電話でのこの方はカジュアル、フレンドリー、かつ失礼のないバランスがよく取れた言葉遣いが印象的だった。

母国語を聞くのがだいぶ珍しくなった今、特に女性の声というのは妙に親切感があった。恥ずかしいけど、うちの母以外に中国語を喋る女性はほとんど周りにいないから、いきなり懐かしい気持ちが湧いてきた。

(以下、電話の内容は日本語に翻訳している)

「はい、少しなら、何のことでしょう?」
「よかった、ありがとうございます。今〇〇の大手企業からの求人情報がありますが、興味ありますか?どちらも先端分野で、話題のAIやクラウドなど扱っており、報酬も手厚く、朴さんのスキルとの相性もいいと思いますよ」
「それはどうも。でも今は特にそういうの考えてないのでなんとも」
「そうですか?もし差し支えなければ、今の職場や業務内容等教えていただけますか?今すぐではなくても、これらの情報をもとに、またいい条件があったらお力になれと思いますので」
うー、内容をわかった今、本当はここで電話を切りたいところだが、綺麗な母国語に変に吸い込まれたのか、もうこのままちょっと会話を続いた。

今の仕事をざっくりまとめて伝えると、電話越しでキーボードがぱちぱちと打たれた音が聞こえてきた。確かにそっちが持っている情報はもうだいふ古くなっているはずだ、これの機にデータを更新する気だろうな。

「え、では10年以上の勤務経験とRailsでの開発が7年で、今もエンジニアをやっていると。ふむふむ。ちなみに今の年収はどれくらいですか?」と更に打診してきた。うまいな・・
嘘をつくのも、逃げるのもあれだし、正直の数字を伝えた。
「おー、はいはい、なるほどなるほど」
そして、その数字がパソコンに入力された音がした。

ここでふと思って、今度は僕から質問を投げた。
「それって、どんな感じですか?」
「どれどれ、ちょっと待ってね。今年34歳で、10年の経験と・・(パチパチ)・・うん!まあまあいいんじゃないっすか?」
その「まあまあいい」というのを一体どう解釈すればいいのか。質問をした自分がアホだった。まるで自分がコンビニに並んでいる正規化された商品のように、「横34、縦10、奥○」という座標の棚から取り出され、バーコードをピッてスキャナーして、「まあまあいい」という値段が出た、そのような感触を受けた。

僕という人間は、そこのデータベースでは極めてシンプルに34と10で表現できる存在なのか。僕だけじゃなく、そこのデータベースに、いや、全ての人材紹介データベースに、一人ひとりはデータ化され、その「座標」だけで瞬時にその人へのある種の評価が出せる。「まあまあいい」とか、「ちょっと残念」とか、「ずば抜け」とか、「これはひどっ」とか。

僕らは年齢と年数と年収以外でも、数字で測れないたくさんのものを持っていたり、背負っていたりするのに、こうやって電話越しで、会ったこともない人間にある種の評価が下せるとは、なんだか腑に落ちない。大げさなのは知っているけど、それでも。

「次もし転職するんだったら、希望年収はどれくらいですか?」と続いて、次の質問が飛んできた。
「あーそういうのは一旦いいや、今は数字に麻痺している時期なんだ」と僕は素直に言った。
「え?麻痺?数字?」さすがに予想外の答えで向こうも動揺を隠せなかった。
「大丈夫ですよ、今のベースがあればこれからどんどん伸びますから!」と気を取り直して、元気にまとめてくれた。
「あ、でもね、転職なら40前のほうがいいですよ!」と最後にアドバイスをくれた。
「へー、そうなんだ、そういうのがあるんだ」
「そうだよ、そこからは厳しくなるからね、今のうち考えといたほうがいいよ」
と挨拶をして、この辺で電話は終了。母国語という懐かしい風景に魅せられ話をどんどん聞いてたら、一人で勝手にとんでもない闇に落ちていった。

決してこのエージェントさんの観念や彼女の職業そのものを責めるつもりではない。彼女らのおかげで僕も次々と違うことにチャレンジしてきたし、実際会ったらしっかりと相手と向き合って、全面的に評価する姿勢と手段ももちろんあると信じている。

ただ哀愁的に感じるのは、このわかりやすい「座標」ーー年齢、年数、年収ーーがまるで社会においての自分の「立ち位置」のように、それをもとに互いの「幸せ度」が比べられたり、その結果によって一喜一憂なになったりするのがおかしいと思う。何か大事なことがずれているような気がする。

会社には会社を評価する「座標」があり、学生にも学生の「座標」がある。そして美味しさの座標、買得な座標。株が落ちたからこの会社はもうだめだと、成績がトップだからこの子は大丈夫だと、食べログで4点以上だからこの店は絶対美味しいと、今だけ実質0円、これは買わないと損すると。

こんな「シンプル」に見える座標の上で、僕たちはいかにも難しく生きているのはないかな?そのわかりやすい「普遍的な」価値観念に囚われ、大事なことを見失ってはないのかな?

人生は勝負ではない。それぞれの山はそれぞれの心の中にある。自分のペースで行けばいい。一人でこうは思っていても、「座標」のシステムはいかにも浸透しているから、勝手にレースに出させられたりする。

『響 〜小説家になる方法〜』の漫画で一番印象に残る価値観の衝突は、直木賞と芥川賞をダブル受賞した天才少女は、その後もいつものペースで生活したいのに、世間はその正体を暴こうと大騒ぎするくだり。その反面、「芥川やらとらなきゃ作家じゃないみたいな風潮なんなんだよ、だったら全員に配ってくれ」と人生のすべてを賭けていても、賞を取れなかった人たち、行かざる座標に行けなかった者たちの心境を通して、好きなことをやって生きていくというのがいかに辛くて厳しいかを表現した。

何も真剣に考えずにこの世界のレールに乗ったまま、「まあまあいい」というところまで来た今、僕は改めてこの構図を理解し、自分の生きていく方程式を構築しようとしている。

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Qihuan Piao

朴 起煥

東京で働いている「外人歴」9年のソフトウェア「ライター」。いつの間にか納豆が食えるようになり、これで日本に慣れきったと思いきやまだまだ驚きが続いてる。読んだり書いたりするのが好きで、自身の経験や本から得た「何か」をここに書き出してる。最近古本屋にハマってる。

他にも英語中国語で書いてます、よろしければチェックしてみてください。