2021年2月23日

いつも同じ男に痛めつけられている。

一週間や二週間に一回の頻度で。悲惨な状況である。よだれを垂らしながら、間抜けな顔にさせられ、血まみれになったり、頬が腫れたりして。

そうです、ご想像のどおり歯医者のことです。これが僕にとっての「身近な恥辱」である。

関連するテーマで、床屋で髪を洗われることがもっとも恥辱だと、村上春樹は『やがて哀しき外国語』で訴えた。

「だいたい頭を後ろにそらせて髪を洗うなんていうことは、人間性に対する大いなる侮辱であるように僕は感じてきた。だって髪を洗われているときの人間の顔なんてぜったいに馬鹿みたいなものだし、そんなものを上向きに世間に晒すのは、恥辱以外のなにものでもないじゃないですか。」(「運動靴をはいて床屋に行こう」節より)

うん、想像はつく。でも今の美容室ではフェイスガーゼを顔に覆うから、最低限の尊厳性は保たれると思う。しかし歯医者となればそうはいかない。映画で怪我の緊急処置をされる場合、主人公が口にタオルを入れて、それをしっかり噛みながら痛みに耐えたりするよね。歯医者にはこれは通じない、だって口を開けとかないといけないから…

虫歯の治療で型取りするときの話。僕は座った姿勢で口を大きく開け、よくは見えなかったけど担当の先生は「銃」のような機械を持ち、引き金を繰り返し押しながら、液体とも固体とも言いがたいドロドロの物体を僕の口の中に発砲した。そして数分間その体勢を維持してと命じられた。嘔吐反射を必死に堪えながら、だんだんこれが学園ドラマに出てくるいじめのシーンとも似ているなと思い始めた。先生が戻ってきたとき、僕の口の中のよだれは噴火寸前の状況までこみ上げてきた。歯の形がくっきりと取られたであろう物体が取り出された際、どんな堤防も防ぐことのできないよだれが一気に流れ出て、宙に太くて粘着な線を引きながら舞い落ちる…

これ以上の恥辱があるだろうか。

まだ男性の先生でよかった、ほんとに。一般的に、男は白衣の異性の先生や看護師に惹かれる傾向があるようだが、僕にとっては何があっても女性の歯医者に恋心はぜったい抱くことはない。こんな醜態を晒した後にどんな顔でデートに誘うっていうのか…

これは僕が歯の定期検診を怠慢したから、そのつけが回ってきたと言いようがない。自業自得そのもの。

そういえば僕の両親も歯の状態がよくない。お二人の歯医者に行く話は昔からしょっちゅう聞く。当時は「神経を抜いた」、「被せもの」などの用語は理解できず、僕は特に問題視しなかったが、今思えば両親と似たような治療を受けているなと気づく。家庭環境が子供に与える影響という面で考えてると、こんな展開は意外でもない。

もちろん、親に責任転嫁するつもりは毛頭ない。もしかすると、これは僕の家庭だけの問題ではなく、僕の生まれ育った中国の当時の公衆衛生知識の欠如に由来するかもしれない。それについて少し語ろう。

僕が中国を出た二十三歳までは、歯の定期検診なんて言葉すら聞いたことがなかった。両親からも、周りの同世代の友人からもそんな話はまず聞かない。また、鮮明に覚えているのが、小さいときに「デンタルフロスと歯間ブラシは、歯と歯の隙間を開けてしまうからやっちゃだめ」という誤った情報を大人たちから教わった。

日本に来て数年経った頃に、奥歯が急に激痛を起こした。歯医者には行かず、痛み止めを飲まず、そのまま耐久しながら普通に仕事をこなしていった。一週間くらい続いて、あまりの痛みで舌でその奥歯を何度も何度もなめていたら歯が取れてしまった。親知らずだから、自然に取れる場合もあるだろう。しかしなんでそこまで愚直に歯医者、あるいは医療を受けることを拒んでいたのかは、今になっては恥ずかしいとしか思えない。

歯に限らず、医療そのものについての国民的意識にも問題があったように思う。我慢するのが美徳で、よっぽどの病気がない限り病院は避けるという風習。自己判断で薬を調達するのが当たり前。医療保険とか、医療費がどうだったとかは、当時まだ子供の自分にはよくわからなかったけれど、大人たちの会話からよく聞くのは、裏で賄賂をしとかないとちゃんと診てくれないとか、大した病気もないのにあれこれ検査させられ、医療費が膨らんだとか、そんな話ばかり。

僕の中国の友人から聞いた話は更に驚く。彼女はお母さんの病気を診てもらうために一緒に北京の病院を訪れた。葛藤しながらも主治医に札束が入った封筒を渡した。その先生はただ黙って素早くそれを受け取った。その瞬間、「あ、こうやって自分は大人になったな」と実感したと語った。まだ少女だった友人がそんな思いをしなくちゃいけないなんて、胸が張り裂けそうになる。

中国はとても大きい国でいろんなことは一概には言えない。これはあくまで当時の僕と僕の周りの人たちを取り囲む環境から見えてくる定期検診への抵抗、医療機関への不信、公衆衛生などの問題であろう。そしてこれらが発展途上国と先進国の絶対的な差だなと痛感した。高層ビルなど数年もあればいくらでも建てられるけど、国民の医療への意識と信頼を変えるのは一世代の時間がかかるかもしれない。それも痛みの時間。


だいぶ飛躍した話をしてしまった。

余談ですが、先日の治レーザービームに照射された。口の中が焼き焦げた匂いがした。そして、今週も同じ男に痛めつけられるでしょう。
(本当は先生にちゃんと感謝してますよ; 頼りにしてます!)

2021年2月 2日

月の始まりの日が月曜日と重なると、やや高揚する。

これは中国人の曜日の表現の仕方と関係するのかもしれない。中国語では月曜日は「周一」あるいは「星期一」と表す。曜日に連動して最後の数字が連番となっていく。例えば火曜日は「周二」、水曜日は「周三」、そしてそれが「周六」まで続いて、日曜日は例外で「周日」と変形する。日本に13年住んでいても、僕の中では曜日の感覚は「月火水木金土日」というよりは、数字の「一二三四五六」のほうと強く紐付いている。

2月1日が「周一」。日付と曜日の数字がぴったり合うと、僕は時計の針がぴったり重なったような一体感と整合感を感じ取るのだ。

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そしてこれは実生活にも便利で、例えば2月20日が何曜日と聞かれると、土曜日だと即答できる。7で割って余りの数字が該当する曜日になるから、わざわざカレンダーを調べる必要がない。さらにいえば今年の2月は28日までしかないので、四周間ちょうどで終わり、続いての3月1日も月曜日になる!こんな素晴らしい連続はほかにあるのか!(まあ普通にあるでしょう)

この数字への感覚に普遍性はあるのか、僕は調べたこともないし、人と喋ったこともない。少なくともこれは月が移り変わるときの、僕なりの一つの楽しみ方となっている。

もともと自分は数字には何かしらのアフェクションを感じやすいタイプの人間でもある。たまたま並べなれた数字からつい規律性なり、ストーリー性を見出そうとするクセがある。例えば高層マンションのエレベーターに乗って、たまたま押された階層が「9, 18, 27」となったときは透き通る気分になる。逆にそこに「26」が邪魔に入ったり、「18」がずれて「19」になると残念で仕方ない。「おい、フォーメーション!」と心のなかで叫ぶ。

クレジットカードのセキュリティコードがたまたま「365」となったこともある。一年間の日数の数字にも魅力を感じる。映画でよく見る銀行強盗が金庫に耳を当ててダイヤルを回し、番号が合った瞬間の「パカッ」と開ける音のような達成感。だから本当にこのカードには有効期限がなければいいのにと思ってしまう。

2月2日の「周二」(ゾロ目!)にこの記事を書いて記録を残そう。日食なんかよりはこっちのほうが嬉しく思う。

2021年1月30日 #stationery

モノを選ぶときは常に自分のニーズや課題、今の生活ルーチンの中でのユースケースを想像しながら、できる限りこちらの条件を明確にするのが大事。すべてを網羅するデザインは存在しない。自分の要求をはっきりすればするほど、該当対象は絞られるけど、それにきちんと応えてくれるモノに出会えれば、それは長らく愛用する人生の友になる。その探し求める過程はなかなかの醍醐味である。

さてさて、ペンケースの話をしよう。

僕がペンケースに求めているものは何か、まずはそれをリストアップする。

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  • 使うシーン(コロナ前):主に自宅、オフィス、カフェなどで読書するシチュエーションを想定
  • 入れるもの:四色ペンと定規、付箋、シャープペンと消しゴム、ハイライターなど読書時の常備品

筆記類の利用頻度からさらに「クイックアクセス」と「その他」に分けられる。例えば四色ペンと定規はすぐに取り出せる体制にしたい。この二つさえあれば、気になる箇所に線を引ける。定規については前回の記事で紹介したKUTSUWAの16cmブラック定規を使っている。

こうなると外ポケットか、あるいはファスナー付きのサイドポケットあたりが理想。
二つ以上のポケットがあればで小分けに収納ができて、ペン同士の摩擦も抑えられ、傷つきにくくなる。

形とサイズに関してはそこまでこだわりはないが、どっちかといえば、ドカンと鎮座する巨漢よりかはスマートスリムフィットが望ましい。

(こうやってペンケースにおいての条件を書き出してみたら、なぜか部屋探しのときのことを思い出す。)

試行錯誤の末、ようやく二年前にデルフォニックスのコンター(5ポケット)に出会えた。

デルフォニックスコンター5ポケットペンケース

さらっとした質感も心地よい。ファスナー付きのポケットには「クイックアクセス」類を入れて、必要なときにすぐ取り出せる。紐の白のドットはアクセントになっていて気に入った。

中身はこんな感じ。三つ折りでかなりコンパクトで、なおかつ収納力が高い。

デルフォニックスコンター5ポケットペンケース・中身

普段はこういうふうに使っている。

IMG_2935

左のポケットにはハイライターとFRIXIONの替芯を。FRIXIONの四色ペンで本に線を引いている。インク切れのときのもどかしさといったら。。。本末転倒になるけど、「線が引けないんだったら本は読まない!」のような状況に陥ったことも多々あったので、何があっても替芯は常備しとく。

真ん中のポケットにはノートを。僕はもともとフィールドノートはあまり使わず、スマホに書けばいいやと思っていたのだが、やっぱりそれだと読み返さない。そのきっかけがないし、パラパラ読みには紙に劣っている。前に買ったMnemosyne N193Aノートがちょうど入るので、デルフォニックスのペンケースを使うことで、ノートの新しい使い道が開拓された。紙に書いたものは結果的に再開発されることがけっこう多かったりする。

右側の二つの浅いポケットは小物を収納するのにぴったりなので、付箋と消しゴムを入れている。

以上が自分のユースケース。

だいぶ使い慣れていて、僕の中ではけっこう納得のいく逸品で、ある種の終焉を感じさせるくらい完結している。こいつが完璧というよりかは自分のニーズにジャストフィットしている。

気になるところと言えば、音ですね。内側は面ファスナーで開け締めしているけど、あれを開けるときの音。日中はまったく気にしない程度。でも夜になると、あるいは閑静な場所なら、周りの人に迷惑かけてないかと気になってしまう。自分は心配性な人間だから過剰に反応しているだけかもしれないけど。

また、収納力はかなり高いけど、パンパンに入れると折りたたむときに形が崩れる。トースターで焼かれた餅みたいに膨らむ。腹八分目、ここにも適用可能。


デルフォニックスの同シリーズでコンター・ラウンドというのもある。こちらも当初店舗で触ってみて検討していたけれど、なにが不満でスルーしたのが、今となってはまったく思い出せない(笑)。表のポケットは確かに便利そうで、ファスナーなしでさらにアクセスが抜群。中身を囲むファスナーがちょっと不便だったのかな。5ポケットのバージョンは「一発でパカッ」と開けるのを対し、このラウンドは「北半球にぐるり、南半球にぐるり」といった具合で二、三テンポ遅い気がする。

kontur-round


『捨てる贅沢』という本でこんな一節があった。「モノに愛着を示す最良の方法はそれを使うこと」。
今日もデルフォニックスのペンケースを使い、さらにそれをブログのネタにもした。十分な愛情表現だろう。

2021年1月 4日 #stationery

いくつか愛用の文房具を紹介します。まずは定規から。

僕は本を読むときに気になる箇所に、定規で線を引いている。素手で引くときのグニャグニャとする線はどうしても生理的に受け付けない。どういうふうに線を引くかは、『三色ボールペンで読む日本語』に強く影響され、ご興味がある方はぜひ一読してみてください。

なので、僕が定規に求めているのは読書時に線を引くための機能であり、長さを測るという使い方はほとんどしていない。その目線から、試行錯誤の末、今はこのKUTSUWAの16cmブラック定規にたどり着いた。

KUTSUWAの16cmブラック定規

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長さ

16cmは正直少々長い。これ以上長くなるとペンケースに収まらない、あるいは収まりづらい問題が発生する。

線を引く上では、最低限の長さは以下の通り(標準サイズの場合):

  • 縦書きの単行本の場合は13.5cm
  • 縦書きの文庫本の場合は12.5cm
  • 横書きの和書、洋書の場合は11cm

縦書き文庫本、単行本に定規で線を引く場合

横書き和書、洋書に定規で線を引く場合

なので15cmあればだいたいは物足りる。

程よい存在感

こんな悩みありません?デスクに本とペンと定規と付箋などを取り出して読書に取りかかる。ふと線を引きたいときに、定規がどこに置いてあるかぱっと見つからない問題。この一秒二秒くらい探す手間がリズムを崩し、フラストレーションに感じるしまう自分。(こんな細かいことを気にするのは、果たして日本中に僕以外どれくらいいるのか、見当もつかないのだが、、、)

この問題を解決するには、定規に程よい存在感を出してほしい。つまりビジュアルコントラストの度合いが高いほうを選ぶ。

今使っているKUTSUWAの定規は透明・黒が合間になっていて、明るい色合い、あるいはダークのデスクに置いても、周囲とのコントラストが強いため、すぐに見つかることができる。よくある透明度が高い定規は周囲にあまりにも溶け込むため、僕は不採用としている。

比較するために透明度の高い定規と一緒に並んで見る。まずは明るいダイニングテーブルに。

IMG_1116

次は僕の仕事デスクに。

IMG_1120

いかがでしょう。透明度の高い定規より、KUTSUWAの定規のほうがぱっと目に入るし、かといって目立たすぎず、脇役をきちんと演じているところが高評価。

(まあ定規を定位置におけば済む話かもしれないですけどね。。)

次の行を覗き見

透明の方を上に向く場合、ちょうど一行ほどの高さが透明になっているので、次の行の文字が見える!これで線をどこで区切るかがより判断しやすくなるし、線を引くときの力加減もコントロールしやすくなる。

最初はただの便利機能かと思いきや、今はこれがないといささか心細い。

次の行を覗き見

その他

他にも便利機能が盛り込んでいる。

  • 裏面に滑り止め加工が施され、線をまっすぐに引きやすい
  • 角に丸みがあり、手やペンケースに優しい
  • 物の高さや深さを測りやすい端スタートメモリ

お値段

180円、破格です。感動しかない。こんなにユーザー目線で作られたモノが200円もかからないと考えると、日本最高だと思ってしまう。


こんなクセのあるこだわりは、果たして誰かにわかってくれるのか。
次回は愛用するペンケースを紹介します。お楽しみに。

2019年5月12日 #dreams

自分が見た夢を人に伝えるのはとても難しい。

理屈が通用しない世界、順序が前後し、とりとめもなければオチもない。これをただありのままに話しても、聞き手にとってはなんにも面白くない。かといって、夢の世界観を借りて、少し話を盛ればそれなりの逸話になるかもしれないが、そのような修飾は、語り手としてはどうも腑に落ちない。夢に嘘を混ぜたら、それこそ真実とフィクションの挟間にある、どっちにも属しない話になってしまう。

それでも夢の中で経験したその生々しい感触を、誰でもいいからとにかく誰かに伝えたい場合がある。自分の身に実際にあってもおかしくなかった、そんな夢を。カーテンを開けて、日差しをどれだけ浴びても拭えきれないほどに、その感触はとても深いところまで染み込んでいる。簡単には片付けられず、どこまでも引きずってしまう。

ここからは僕がこの前に見た夢を感じ取ったままに語る。小説に出てくる夢のシーンは往々にして示唆に富む話だが、僕がこの現実世界で見た夢はそうではない。たぶん。だから読み手に何か有意義なことになるか、と聞かれると恐縮な気持ちになるが、どうしてもこの夢の情景をキャンパスに描きたい気分になった。そして絵心ないので、文字に引き換えている。

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伝染病か何かで世界の人口は激減し、残された人類は生きるために、それぞれ小さなコミュニティを作って、共同生活をせざるを得なかった。(この辺はよく見るディストピアの作品に明らかに影響を受けてる。)

気づいたら僕は廃墟となった町をさまよっていた。食料探しに出かけたのだ。町はなぜかアメリカの大きな一軒家がずらりと並ぶ住宅街の形をして、人気がなく、路肩に放置された車にはぶん厚いほこりがたまっていた。ハトやカラスといった鳥たちの死骸があちらこちらに散らばっていた。飛行中に力が尽きてしまい、そのまま重力に引っ張られ、地面に叩きつぶされたみたい。

このまま食料が見つからなかったら、帰って「村」のみんなにどう説明すればいいんだろうと悩んでいるその時、一軒家の車庫の脇にぷるぷる震えている何かが目に入った。近くに行って確かめる。まだぎりぎり生きている小動物だった。人間以外の生き物はほとんど絶滅していたから、この出会いは僕を高揚させた。

その小動物はまだ赤ん坊のようで身体が小さかった。耳は比率に合わないくらい大きく、まるで象さんのようで、その一対の大きな耳で両目を覆っていた。何があっても目を開けるまいと固く決心したように見えた。まるでメデューサに石に変えられるのを恐れているみたいに。

小動物は酷寒と飢渴に必死に堪えてきたが、そろそろ限界のようだった。しかし僕は分けっこできる食べ物など持っていなかった。首の下にそっと手を差し出して、僕は聞いた。

「君はワンちゃんかい、猫かい」

(今になって思えば、これはいささか奇妙な聞き方だ。なぜかは知らないが、僕は犬と猫のどっちかだと確信していた。あの象のような大きい耳を完全に無視して。)

その小動物は目を耳で覆ったまま、舌で僕の手のひらをなめなめしながら、「ミャーォ」となついてきた。

「助けないと」と僕は思った。その子猫を両手で注意深く持ち上げて、ジャケットの左側の内ポケットに入れた。危うい状況に陥ったが、その生命力が発する熱はシャツを通し、僕の心を温めてくれた。右手でジャケットの襟をしっかり掴みながら、僕は帰路についた。子猫は始終大きな耳で目を覆っていた。


秘密基地というべきか、アジトというべきか、僕が属する「村」はどうやら鉄道倉庫を拠点としている。重い鉄の扉をちょうどひとり通れるくらい引っ張って、僕は中に入り、また素早く扉を閉めた。

あたりは薄暗く、気休め程度に窓がいくつかあった。天井は大きいものの、たくさんの貨物コンテナが倉庫いっぱいに積んであって、空気の居場所さえ奪ってしまう勢いだった。生活用品の一つすら見当たらず、果たしてどうやって生きているか、真面目に突っ込むだけ野暮だ。

「食料は見つかったか」とリーダー格の人に正面から聞かれた。声に尊厳さがにじみ出るが、顔を見ると意外にもまだ子供だった。ガキ大将という言葉が思い浮かんだ。そこで初めて自分も小学生の体つきであることに気付いた。どうやらここは生き延びた子供の集まり場のようだ。

周りの視線を感じる。倉庫に入った時は人の気配ひとつ感じなかったが、ガキ大将の一言で身を潜めていた「住民」たちの存在に僕は気づいた。貨物コンテナの上に座ってこっちを睨んでる人、影に隠れて耳を傾けてる人、その神秘さは『ハンターハンター』の幻影旅団を思わせた。暗殺者たちではないけど、「表の光」が好まない子供たちの集団のようだ。

返答に窮した僕にガキ大将は不審を思い、接近してきた。鋭い目はすぐに僕のジャケットの膨らみに気づいた。

「ふざけんな!ただでさえ食料不足なのに、猫なんか飼えるわけねいよ!」とガキ大将が責める。

子猫は鳴いてもないし、しっかりとジャケットのポケットに隠しているのに、なぜわかった?あなたの能力は透視眼ですか!?と思わず口に出すところだった。

いろいろな感情が込み上げてきた。

彼の指摘通り、この状況で子猫を拾ってくるのは、ただでさえ足りない食料を、みんなから奪うことに等しい。その責任は僕が取れるのか。この残酷な世界にこんなわがままは許されるはずがない、そんなことも忘れ、一瞬の衝動に駆られた自分が恥ずかしかった。それでもこの小さな生命はほっておけなかった。それは奇跡であり、希望そのものだ。そしてこの世は今まさにそれを求めている。

しかし何よりも恥ずかしかったのは、僕は犬派と自己主張してきたのに、実は「隠れ猫派」だと見抜かれたことだった。これは何より僕を混乱させた。自分はいったいどっちなんだ?「君はワンチャンかい、猫かい」の質問をしたとき、僕自身はどんな返答を望んでいたのか?僕が強く願えば、この小動物は僕の意思に応えるように変形してくれるはず、そんなふうにさえ思えてきた。なのに僕はあのとき判断を下せなかった、それを流れに委ねた。その迷いが具象化し、この局面まで発展したのだ。

僕に注がれている目線が鋭い刃物のように感じた。ガキ大将は太くて長い腕を伸ばし、「そいつをよこせ」と命令した。僕は左足を一歩下がり、重心をそこに移し、対抗の姿勢をとった。ろくなことは言えず、ただ「それはやだ」と子供ぽく連発しながら、ジャケットの襟を右手で強く握りしめた。その隙間から子猫に目をやった。両目を覆われていた一対の耳はいつのまにか通常の大きさに戻り、子猫は目を開けて、じっと僕のことを見つめていた。魂が宿っているきれいな瞳だった。そして最後にもう一回「ミャーォ」と鳴いた。

そこで幕が閉じ、夢の終わりが唐突に訪れた。僕は煮えきらない気持ちで朝を迎えた。

2019年4月 4日

去年の半ばに外資系に転職した。見た目も性格も多彩多様な外国人軍団、面白い初対面が多々あった。

大柄で、丸坊主で、目つきが悪く、顔がめちゃくちゃ怖い人が、実はポーカーフェイスの、自分を犠牲にしてもジョークを優先する、サービス精神旺盛な人だった。

ガタイがよく、七三分けの髪型にハンサムな顔、しかし振る舞いが芝居掛かっていてチャラそうに見える人が、実はオチの前によく大爆笑して逆に場を壊す、ピュアな少年だった。

そんなふうに、時が経つにつれ、少しずつ周りの人たちへの理解は深まっていく。しかし、第一印象があまりにも衝撃的すぎて、まったく払拭されない事例が一つだけある。

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入社して間もない頃、同僚二名と一緒にランチを食べに行った。一人はインドネシア人のHさん、一人は日系メキシコ出身のEさん。僕たちはお店の中央にある大きなラウンドテーブルの席に案内され、週替わりを注文した。そして話題はその夜に開催する社内のサマーパーティーになった。

毎年、夏と冬に全社規模のパーティーが開かれるのは、入社オリエンテーションで聞かされた。大陸ごとに分かれて開催し、僕らが属するAPECでは、中国と韓国とシンガポールの社員も東京に招いて全員で大掛かりのイベントを行うそうだ。

「過去ではクルーズを貸し切って夜の東京湾を駆けたり、ディズニーランドの一空間とミッキーマウスたちを一人占めしたりしてたな」とHさんは懐かしげに言った。

流石にアメリカ企業、想像を絶するスケールだと僕は感心した。

その後もしばらく彼らの話を聞いていたら、なぜかワンピースのマンガの扉絵が思い浮かぶ。ルフィと彼の愉快な仲間たちが満面の笑みで宴を楽しむ心温まる光景。このサマーパーティーはきっとそんな感じなんだろうな。日本企業でありがちな半ば強制参加で、お偉いさんの延々と続くスピーチで乾杯が遅らせる宴会とはまるで違う。

僕はちょうどサマーパーティーが行われる六月に入社した。オリエンテーションのとき、人事の方が「ちょうどサマーパーティーに参加できるね、よかったね」と言った。外国人軍団に自己紹介の時に、僕がそれをネタにしたら、「おぉぉ!ちょうどサマーパーティに参加できるじゃねーか!グッドタイミングだ!」とみんな僕の肩を軽く叩きながら言った。

グッドタイミンか。色々な人からそう言われたら、何故か、自分もそう思い始めた。それまでなんとも思ってないのに、クラスメートの冗談で、急にある女の子を意識するようになったみたいに。何をもってグッドタイミングと言うのか、評価の軸は彼らと違うけれど(ぶっちゃけ僕はそんなにパーティーに情熱を感じないのだが)、その時の自分にはこの転職が結果的にも良かったという実感を望んでいたし、「よかったね」、「グッドタイミングだ」と言われるのは、たとえお辞儀でも正直嬉しかった。

「女性たちは気合い入れて、ドレスアップしたりするんだ」とHさんは天井をぼんやりと眺めながら言った。そして視線を僕らに戻して、「でもまあ、野郎たちは見ての通り普段着だけどね」と話をまとめようとしたその時、「?」の疑問符が彼の脳内に浮かんだのが伺えた。彼はしばらくEさんの襟シャツをじっと見つめてから、何か悟ったように大きくテーブルを叩いた。

「お前、それ、パーティ服だろう?いつもパーティの時に絶対これ着るよな!前回もこれ着たよな!」一気に興奮したHさん。二週間あまりの付き合いで彼がからかい好きなのはわかっている。その勢いは東京03の飯塚が角田の合コンの勝負服を突っ込むコントを連想させた。

言われてみれば確かにEさんの今日のシャツは普段より一層輝いているように見える。生地がよく、襟がしっかり立っている。ファッションに無関心な僕はこれ以上のヴォキャブラリーを持ち合わせていないが、でも今日のEさんそのシャツをまとって、いかにも「できる男」のオーラーを出している。

Eさんは虚をつかれたか一瞬言葉を失った。「なんだお前も気合い入ってんじゃん」と追撃するHさん。しかしEさんはいつものクールさを崩さず、回復のひと時を要してから、無言でさっと中指を立てた。そして冷徹な口調で言い返した。「お前の服のセンスよりマシだろう。いつも雑巾みたいな。」

この反撃はHさんは予想しなかったのか、今回は彼が逃げ場を失い、咳払いをして場をごまかそうとした。

この攻防戦を横で見ていて、僕はけっこうヒヤヒヤした。このような会話や中指を立てるのは日本人同士では絶対ないでしょう。同僚ではなく、むしろ同級生みたいだ。異郷人同士で、かつ英語だからこそ、30、40になっても隔てなくこんな冗談が通じるかもしれない。

Hさんがうろたえる隙間に、僕は改めて彼の洋服を眺めた。普段から無造作ではあるが、清潔感にはけっして何の問題もない。でもなぜなんだろう、手入れが行き届いてないのか、言われてみれば、確かにHさんの洋服は雑巾のヨレヨレの質感にかなり近い。

このできことを境に、僕はHさんの洋服に目を配るようになった。そこから十ヶ月経った今、そのスタイルは、あるいはセンスは、季節に影響されず恐ろしく一貫している。一貫してヨレヨレしている。彼はからかい好きで、エレベータを待つ合間でも、弁当をレンチンする合間でもいつも誰かに先手を打つが、大体ワンラウンドで敗れてしまう。それでも諦めることはなく、来る日も来る日もからかっていく。その不服の精神に、もはやリスペクトせざるを得ない。

こうやって彼は僕の中で「からかい下手のゾウキンさん」と化している。彼が自分のブランドイメージを挽回する日は、果たして来るだろうか。

後記:年末のウィンターパーティに、Eさんは違う襟シャツを着ていた。

2019年3月21日 #book

『死人荘の殺人』の続編。設定も人物もそのまま受け継がれ、ホームズとワトソンが次のミステリ事件に巻き込まれる。

序盤はあまりにもペースが遅過ぎて全然進まなかった。もし前作を読んでいなかったら、恐らく諦めたかもしれない。中盤に入り、(言葉はあれですが)一人目の被害者が出てからは、ようやく勢いが増して、最後の死闘までテンポよく突き進んだ。

前作ほどの衝撃はなかったが、これはこれで、斬新な発想でいい頭の体操になって、けっこう楽しめた。

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余談になるが、ミステリ小説は定義上どうしても謎解きや犯人探しに注力するため、登場人物の内面の描写が欠けている。まだあまりわかってないのに、あっさりと死んでしまったキャラクターもいる。ミステリの部分にウェイストを置かないと、そもそもミステリ小説にならないから、欠けざるを得ないか。

そうするとちょっと問題になるのは、作者が最後にその犯罪動機を開示しても、こっちとしては、それをうまく呑み込めない場合がある。多彩多様な登場人物、せっかくの素材が不完全燃焼でこうも唐突にキックアウトされたり、軽々と犯罪を犯したりして、腑に落ちないというか、もったいないというか、物足りないというか…そんなモヤモヤになることがある。

その消化不良を治すために、本作での何人かの人物について、もう少し自分の妄想を書き伸ばしてみた。生地を揉み伸すように。


👉以下ネタバレになるので、クリックしてお読みください

王寺

「貴重品」をバイクに置いてきた、置くべきではなかったと語る王寺の未練めいた言葉は、何か変だと思った。凶器ではないかと推測したが、それがまさか御守りとは。他にも体には魔除けと思われるタトゥーが彫ってある。三つ首トンネルに行った他の仲間は次々と謎の死に巻き込まれ、彼が唯一の生き残りだった。

そんな彼はきっと恐怖に追われる日々を送ったんじゃないか。もしかしたら、バイクであちこちを駆け回り、少しでも魔除けできる奇人に助けを求めたり、あらゆる御守りをかき集めたりしていたのかもしれない。東京での暮らしを完全放棄し、関西に移転したのも、災から逃げている匂いがする。完全に三つ首トンネルの呪いに心身を潰されてもおかしくないのに、珍しいことに、彼はまだ明るい一面を保てていた。

スポーツが苦手だと悩んでいた純くんには、こう励ました:

「子供の頃は声が大きくて足が速い子が目立つものさ。男らしさってのは、女の子を大事にできることだよ」

読み返したら、彼は確かに紳士だった。臼井に恫喝される神服さん(なぜかここだけ「さん」をつけた)を庇ったり、軟禁と言い出された十色のために弁明したり、葉村くんに代わって、ベッドのない地下の部屋を自ら選んだりした。しかもこんな気の利いたセリフで:「ツーリングでは野営することもあるしね。屋根と布団があるだけで天国さ」。

団体行動でもいろいろと気配りを見せていたが、それは臼井が「呪い」に殺されるまでだった。またの変死に、今まで逃げ続けた、あるいは逃げ切ったと思った呪いに、きっと魂胆も震わせたんだろう。

同じく三つ首トンネルに行ったことのある臼井が、不可抗力の地震に呑み込まれた。命の重さはまるで煙草の吸殻よりも軽い。また、トンネルに行ったほか三人の友人の死は、実はサキミはすでに予知していて、その彼女から、この二日間で男女二人ずつが死ぬと告げられた。さらに、彼の精神崩壊の決定打になったのは、初対面の十色は絵を描いたらそれが現実となり、その都度誰かが死にかかる状況に陥る。彼にしてみればただの謎と驚異の能力者だ。呪いに、予言に、予知。王寺にとっては、これはもうたまるもんじゃない。

そこで、サキミの予知能力を逆手に取り、他人の死でその枠を満たせば自分はこの何重もの呪いから逃げられるとでも思った。そこからは自己正当化しながら、一歩一歩闇に落ちていった。

吉見に来なければ、ガス欠にさえならなければ、彼もまた全然違う人生を送られたのではないか?
運転するんだったら、ガス欠には絶対気をつけよう。。

茎沢

確かに口を開ける度に周りを不快にさせる、短絡的な考え方の持ち主だ。十色の超能力の唯一の理解者ではあるが、彼自身の思い込みが強すぎて、会話は一方通行。

でも彼もまだ高校一年生だ。その歳の、特に男の子にはそれくらい夢中で短絡で愛慕の感情に走らせるのも、ごく普通のことじゃない?

十色への想いは純粋な利他的とは言えないが、完全に利己的でもない。彼は十色のその予知能力に救われ、そして彼女がその能力ゆえにいじめにあったり、不自由な生き方をしたりするのをほっとけなかった。先輩の能力は人の役に立つ、先輩は尊敬されるべき存在であることを世間に証明したかった。今はその証拠集めで、データが揃えれば十色に相談すると言った。

十色は当然それを望んでいない。能力なんてうんざりだ、普通の生活を送りたい。しかし、それを茎沢には伝えていない。彼女もまだ高校二年生、二人とも自分のことでいっぱいで、かつ感情表現が下手な年頃じゃないか。もし、この異常な環境を生き延びて、事件を通して互いに本音を言えたら、彼女の支えになろうとした彼は、きっと真の理解者になっていくんじゃないかな。

十色が悲惨に殺され、彼はきっと自分のせいにしたんだろう。守れなかった。あのとき強引でも先輩を部屋から開放されるべきだった。そして皮肉なことに、結果的には、彼の熱弁した推理は実に正しかった—犯人(王寺)は十色の絵を覗き見して、それに合わせて現場に花をばら撒いたし、サキミもまた嘘をついていた。凄惨な十色の死体の前で絶叫し、失意のまま魔眼の匣を飛び出し、山の奥へと姿を消した彼が、次にみんなの前に現れたときは、腹を引き裂かれ、あちこち齧られた死体となった。

彼は最後、どんな思いをしていたんだろう。悔しい、情けない、怒り、無力。静寂な夜中に山の奥を彷徨い、進み道もなく、戻るすべもなく、凶悪な熊に遭遇し、ぐちゃぐちゃにやられた。尊敬する先輩と、せめて死に方は似ていると慰めを得たのか、倒れる寸前、目に映るいっぱいの星空に、「こんなはずじゃなかった・・・」と嘆いたのか。寒風は彼の涙に籠もる最後の熱を乱暴に奪い去った。

あまりにも無慈悲だ。


他にも朱鷺や岡町についてもカメラを回したいのだが、もう長くなってるから、一旦ここで切ります。

ノンフィクションなのに、なんでこうも惜しむんだろう、ね。

2018年6月28日 #diary #work #cafe

前回:(1)33歳からのカフェバイト

僕が働いているブックカフェは繁華街のとある商業施設の四階にある。名前の通り本屋とカフェが融合した空間で、未購入の本でもカフェでじっくり座って試し読みができる。店内にはWifiとコンセントが整備されていて、コワーキングスペースやミーティングの場所としても利用できる。クラフトビールやレモンサワーなどのアルコールメニューもあり、仕事帰りでサクッと飲むのもなかなか快適。

僕は元々は一人の客としてその空間に陶酔し、果敢に応募したわけです。そうやって今はブックカフェのスタッフとして働いている。エンジニアの時期と比べると、日常はガラリと変わった。

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まずは基礎体力が要る。僕は大体昼の12時から夜10時までシフトを入れていて、途中の1時間〜1時間半の休憩を除けば、基本は立ちっぱなし。それを週5のペースでとりあえず一ヶ月やってみる。

今まではデスクワーカーとして「溺愛」されてきた貧弱な僕にとって、最初は正直キツかった。初日の勤務がちょうどゴールデンウィークのピークに当たり、帰宅後、ソファに安らぎを求めた時に、ぼろっと転ばしたのは「あー、座るのっていいな」という言葉だった。足が痛くて、ベッドで横になってもまだ硬直状態だった。このままじゃ身がもたないんじゃないかと心配もしたけど、意外と人間は適応力が高い生き物ですね。この肉体の苦痛も、3日も経てばすっと慣れてきた。GWの連休も終わり、激務ではなくなったのも大きいけど。

僕らスタッフたちは基本カウンターの内側で作業する。この決して大きくはない空間の中での移動は、実はけっこう多い。スマホのアプリで歩数をカウントしたら、そこだけで一日一万歩を超える日もあったりする。熱々の食洗機からカゴを取り出し、お皿やコップを拭いて元の棚に戻したり、腰を下ろして冷蔵庫から仕込みやドリンクを出したり、閉店後椅子を全部テーブルに乗せて大掃除したりして、運動量が圧倒的に摂取量より多いから、実際三週間で約3kgも落とした。ジムで贅肉を意図的に削る鍛え方より、働きながら自然に痩せていくのは、なにか原始的でオーガニックな味がする。温室栽培より大自然で育ったみかんのほうが美味しく感じるように(単なる錯覚かもしれないけど)。

次に休憩の取り方が大きく違う。デスクワーカーの時代のランチタイムといえば、出動命令が出されたアリが巣から這い上がるように、「集団」で行動するのが常識だった。いわばチームランチ。そこで仕事の話をしたり、プライベートの話をしたりして、なんやかんやでコミュニケーションは取れていた。

ところでこのブックカフェ(あるいは世間ほとんどの飲食店など)では、その会社員時代のランチ常識は通用しない。言うまでもなく、スタッフが一斉に休憩を取ったら誰がお客さんにサービスを提供するんだい、という話になるので、休憩は交代で順次に取っていくようにスケジュールが組まれている。僕は昼の12時スタートなんで、休憩はだいたい4時以降になったりする。ブランチの午後バージョンは、なんと言うでしょう?アフランチ?

このような食事はやや不規則に聞こえるかもしれませんが、僕にとってこれは一つとんでもないメリットがある。うちの店は、スタッフでもその空間を利用できるし、カフェと本屋の従業員割引もある。お店のピークタイムを避けての休憩は、つまり気軽に使えるということだ。

スタッフの仲間にコーヒーとサンドイッチを頼んで、本棚から前から気になっていた本を取り出し、窓際の席でゆっくりひと時が過ごせる。自分たちが提供する食べ物とサービスと空間を、自分が実際の客になって満喫する、なんという贅沢。このようなサイクルがいい発見をもたらすのではないかと思う。ホットドッグの上に乗せる、砕いたミックスナッツは滑りやすいとか、カフェラテのミルクの温度が若干ぬるいとか、そういったささやかに見えて、でも大事なことに気付くようになる。

これだけは絶対ちゃんとやりたいというのがあります。食べ終えて返却台にトレイを返すときに、しっかりと「ごちそうさまでした」と向こう側の仲間に言うこと。自分でやっているからこそ、そのありがたみが倍増する。まあここだけじゃなく、毎日僕たちのために料理を用意しているすべての人に言いたいですね。

つづく

2018年6月 3日 #diary #work #cafe

「パクと申します。11時40分にKさんと面接の予定がありますが」

本屋のレジでそう伝えて、僕は担当者が来るのを待っていた。その1分足らずの間、僕は隣りの棚を意味もなく眺め、目のやり場に困っていた。喉は乾いていて、心臓のドキドキの鼓動が一段と大きくなっていた。いつぶりなんだろう、こんなに緊張したのは。生きている感触だ。

後にカフェ側の席に案内され、Kさんがやって来た。挨拶の後、こちらから履歴書を渡した。そこにはこの十年間、ソフトウェアエンジニアとして働いていた会社名が載っている。最後にこのような書類を準備したのは7年前だった。

それを手に取ったKさんは戸惑いの色を浮かべた。
「エンジニア…ですね。うちのブックカフェの仕事を応募するのは…エンジニアの仕事を希望ですか?」
「いいえ、カフェや本屋のスタッフとして働きたいです。アルバイトとして。」
そう答えて僕はカフェのカウンターを指差した。

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Kさんの目はさらに見開いていた。「それはつまりレジやドリンク、洗い物などの仕事をやるんですか」と確認した。
「はい、そうです」自分に務まるのか、正直不安もありつつ、揺るぎない決意を示そうとしていた。心の底からこの仕事が懇願している。

なぜ、とまではKさんは口にしなかったけれど、明らかにその答えを求めていることが分かった。何か勘違いしていない?うちでいいの?というような確認の目線だった。確かに滅多にない話ですね。現役エンジニアが、33歳にもなって、なんでわざわざブックカフェでバイトを始めようとするのか。

その答えは今になってもよくわからない。それを論理的にまとめるにはまだ歳月が必要とするかもしれない。一つ断言できるのは、ただ、この仕事をしたい、お客さんの顔が見たい、そんな自分の気持ちに気づいたことだ。

面接は15分も経たないうちに終わってしまった。伝えきれなかったことがたくさんあった。

やらないよりやったほうがいい。最近はこの言葉に励まされ、損得をいちいち考え、優柔不断でいるよりかは、「やったほうがいい」のような確信を持てる物事については、とことんやる。この方がまず身が軽くなるし、いい結果を生み出せる気がする。


翌日。

一刻も早く電話に気づくよう、久しぶりに携帯のマナーモードを解除した。不安が膨らみ始めた頃に電話が掛かってきた。ぷるぷる震えた手で、スピーカを耳元に当てた。

朗報。
採用。

こうやって僕の人生初のバイトが始まったのだ、33歳の春から。

つづく:変わってくる日常の風景

2018年4月30日 #book

屍人荘の殺人

何回も本屋で見かけ、一回読んでみたらドハマった。魔力があるように。

全体的に、とても「現代」の感じが漂う作品だと思う。時代背景も、スタイルも、キャラクターの言葉遣いも。今まで「本格ミステリ」って言ったらパソコンすら復旧していない、「過去」の設定のイメージが多く、小説自体の面白さに影響はないけど、「今」ではないのが多少は距離感を感じてしまう。本作がその「穴」をほどよく埋めてくれて、なおかつ新しい流行りの要素をモリモリ取り入れたのが、読者としてありがたい。

本の序文では受賞の言葉が載せられ、心に響く:「自分の想像で誰かを楽しませたい。その原点を忘れず、これからも邁進したいと思います。——今村昌弘」
そして、ミステリ固有の多数の登場人物を一瞬にして覚えやすくする巧技も、著者の親切心を感じられる。

これから読む方のために、ネタバレを避け、細かく語れないのがもどかしい。これだけはぜひ体感してほしい、というところをあげるとしたら…

  • 「ホームズ」と「ワトソン」を借りて語る友情。
  • 絵になるくらいの詩歌的アクションシーン。
  • 「ゾッとするほどに美しい」、「二度殺し」の正体。
  • 最後に問題提起した倫理観——人間の一番醜い部分を指差して、人でなしだ、許せないって非難することの妥当さ。そこから目を背けたい心。

「人は〇〇に対してそれぞれのエゴや心象を投影する」。その〇〇と対峙するとき、自分はどう映っているのだろうか、なんとなく、その妄想に耽る。