本:「ハーモニー」、倒立したディストピア
これは伊藤計劃の二作目の作品である。前作「虐殺器官」の続編とも言えるけど、読んでなくても本作は十分楽しめる。先端技術を使った戦闘シーンはない分、世界の壮絶さとエンディングの吟味具合は最高だ。
世界観
冒頭を読んで少し心配してた。「ハーモニー」というタイトル、三人の女の子、大人になりたくないと社会に文句を言う始まりから、もしかしたらそこらへんのアニメと似たような平和ボケのストーリーかと思ったら、20〜30ページ読んでどこか「安心」した。「真綿で首を絞めるような、強権的な優しさに息詰まる世界」、じわじわとその息苦しい世界観が伝わってくる。
時代は「大災禍(ザ・メイルストロム)」の後、世界中に混沌と騒動が起きた後、ようやく平和を手に入れた人類は、二度とこんな大惨事が起こらないように肉体と精神の極限なハーモニーを求めて、「生命主義」の端までたどり着いた。医療技術の進歩で人間は事故と老い以外は死なないようになり、その対価に成人になると体内にWatchMeというものを入れられ、身体の状態データからあらゆるプライバシーのデータまで常に政府の次形態である「生府」に送り続ける必要がある。
つまり自分の行った場所、聞いた話、見た景色全てが監視されている。今の常識から見ればありえない話だが、それでもそういうプライバシー侵害の心配を遥かに上回るように、社会は平和と慈愛に満ちいるから誰も気にはしない。「心的外傷性視覚情報取扱資格」、映画を見るには、暴力的な資格情報に接するには、法的に定められたこんな資格が必要になってくる。人は喧嘩や紛争すること自体忘れているかもしれない。
面白かったのが、「プライバシー」という単語はその世界で「やらしい」というニュアンスに進化してしまった。自分の年齢、職業、社会的評価点数など、ほとんどの情報が公開している以上、唯一残されているのは、もはやセックスする行為のみ。
誰もが優しくて、健康で、人思いの理想郷とは相反に、妙に子供たちの自殺率は上昇する一方。「優しさは、対価としての優しさを要求する」。子供はこの重たる「空気」を鋭く感知し、憂鬱になり、追い込まれた末、自ら命を絶つことになってしまう。主人公もそれを図ろうとした大勢の子供の中の一人。
主人公の執念
霧慧トァンは螺旋監視官という生命主義の中で最もエリートの職に就いていながら、職権濫用までしてタバコや酒を手に入れようとしている(これらのグッズは生命最高主義への一番な冒涜で、で完全に貶されるものとなり、通常ルートでは入手できなくなっている)。その執念は13年前の親友の死から始まっていた:一緒に自殺することで誇り高く生命主義に対して皮肉で致命的な一撃を加えようとしたが、親友をなくし、自分だけが生き残った。「なんで私は死ねなかった」と、自分で自分を苦しめ、この無念から物語はどんどん展開する。
そして世界的な「大事件」が起きる。それを読んだ時の衝撃はよく覚えている。不意打ちを食らった後は、ひやひやしてた。背筋に冷たい刃物を「ぐさっ」と刺し込まれたたような感触だった。文字だけでここまで伝わるものかと感心する。
醍醐味
一番の醍醐味はやはり「意志とは」、「進化とは」の哲学的な議論だ。テクノロジーが極めて発達した世界で、論理や自我の矛盾はより対立となり明確になる。これこそがSFの醍醐味で、伊藤計劃の得手だと思う。
何を持って「私は私である」と言えるだろうか?こう質問されて脳内で何かの答えを探ろうとして、「とある声」が勝手に鳴るだろう。この「内なる声」ー街を歩いても、ごはんを食べても、人と社交しても、このブログを書いている最中も、これを読んでいるこの瞬間も、常に脳内を迂回するこの声ーこの声こそが「私の意志」なのか?この「声」をなくしたら「意志の消滅」と言えるのか?その時人間はどうなるのか?こんな質問と議論が物語の中に潜んでいる。
数日後、妙に前友人と飲んだ時のことを思い出した。二次会の時にその友人は普通に喋って普通に飲んでいたのに、次の日には全く覚えてないと言ってた。途中から酔って記憶が飛んだらしい。つまりその間は「自動運転モード」に入ってるってことだ。その時の振る舞いは、果たして本人の意志と言えるだろうか、それともただ空白なのか?もし一瞬全世界が「自動運転モード」に入ったらどうなるんだろう?
この質問の余韻に浸って僕はもう一回本の世界に飛び込んだ。
諸々雑談
この本は2008年に書かれたらしい。今から8年前。時代の先読みがすごかった。ARとVRの世界、プライバシーの公開と漏洩、近年の話題が作品に先越されたような感じだった。
少し残念だと思うのが、章と章の繋ぎが弱いと感じた。せっかく章の終わりにフルスピードで突っ走ったレーシングカーが、次の章ではまたゼロからゆっくりとスタートラインを切るような感じ。
第一人称へのこだわりは最後のインテビューに掲載されている。一人称と三人称の優劣は村上春樹の「職業としての小説家」にも触れてあって、作者が何を評価してその手法を選んだか、これは興味津々。
色々面白い一行知識もある。例えばナチスとヒトラー
ヒトラーの母親は乳癌で死んだ。医者はユダヤ人だった。だからヒトラーのユダヤ人憎悪はそこに端を発している。ホロコーストはヒトラーの母親の乳房から生まれたというわけだ。右か左かは知らんが。
(ページ214)
映画もあるので、小説を読んでから観るとよりその世界の肉付けができるからおすすめ。ただし映画では百合になっていて、原作とだいぶ味が変わるから気持ち悪かった。「親友で同志でカリスマの存在」を失くした痛みと「ただ」好きな人を失くした感情とは、レイヤーがそもそも違うから。
瑕疵は多少あるけど、全体としては十分よかった。これで伊藤計劃の三部作のうち二つは読んだから、残りの「屍者の帝国」も楽しみだ。