西国分寺のクルミドコーヒーに行ってみた、物静かの中で一人スリル
『ゆっくり、いそげ』の本を読んで、一度は行ってみようとずっと思っていた。一体どんなカフェなんだろう、本で書かれた思い入れが実践されている場所なんだろうか、と期待を込めて家から一時間以上かけて西国分寺を訪ねる。
西口から出てほんの少し歩くくらいのところにお店があった。案外近い。本の中での世界をこれから体験するんだから、その興奮を抑えきれずまずは入る前に外観の写真を一枚。一瞬にして東京の住民から観光客に変身。
中に入るとまず二階に案内され、六人掛けのテーブルに腰を下ろした。メニューをもらってまずこれに惹かれたーー「見た目華やかなれど、とっても食べにくいサンドです!笑」。その笑いは受け止めてあげないと、と思って早速このサンドとクルミドコーヒーを注文。伝票代わりに可愛い小さな木馬が渡された。
そしてゆっくりと周囲を見回す。お店は縦長にできていて、一階がレジやスタッフの仕事場で、二階、三階と地下が客用のスペース。僕が今座っている二階はカウンターが二つあって、真ん中に大きなダイニングテーブルが置かれている。深く濃いブラン色の一枚板のテーブルで触り心地がとても良い。
各テーブルには名物のクルミの入った小さなバスケとキノコの形をした品のよいくるみ割りがあって、「一つどうぞ」のメッセージカードが刺さっている。長野県東御市からやって来たそうだ。
全体的に何かがドカンと目立つことはなく、都会のザ・オシャレの店よりとは違ってここは物静かで、落ち着いた感じ。タッチの一つ一つはどこまでも一体感があって、うまく溶け込んでいる。まるで謙遜で優雅なバックグラウンドミュージックのように、人前に立とうとはせず、でも耳を済ませれば、その美しい響が居心地よく染み込んでくる。昼過ぎのこの時間帯は6割くらい埋まっているところか。
二階と一階の間の階段にはクルミド出版の本が置かれている。確かここに通っているお客さんの中に物書きの方々がいて、何かしらの形で支援したいという発想からできた小さな出版社と記憶している。並んでいる何冊の本の表紙も『ゆっくり、いそげ』で見覚えがある。
階段をさらに少し降りて、ドアの近い方の棚には「喫茶の文体」と書いたコーナー
あった。横の説明を読んで見たら、「喫茶店やコーヒーををテーマにした一冊8〜48ページの短編が15タイトルで、小説あり、エッセイあり、レシピ集あり(官能小説まで……)」と書いてあった。どちらも無地でエレガントな白い表紙にタイトルが縦に書かれている。
「よろしかったらお席に持って行ってゆっくりご覧ください」と隣の店員さんが丁寧にフォローした。よし、ここは一つスリルでミステリアスなのを選ぶぞ!と各タイトルを目でなぞりながら、一冊に視線を固めたーー『残り香の秘め事』。
それを席に持って帰ったら、ちょうど食事とコーヒーが運ばれ、僕は一旦その「秘め事」を横にずらし、腹ごしらえに取り掛かる。見た目華やかで彩りなサンドだけど、確かに預言通り食べにくい!でも美味しい!僕の食レポのボキャブラリーは片手で数えられるくらい残念で仕方ないけれど、これはなんか、甘えたいような、そんな美味しさだった。食事を終えコーヒーを口にするとスイッチがピタッと入って、『残り香の秘め事』のページをゆっくり開いてみた。「こ、これは…」
ある意味スリルだった。まさか15冊の小説とエッセイとレシピ集がある中、僕は一発で官能小説を取ってしまった。これはどうしよう。先程店員さんがサンドとコーヒーを運んできた時は既に気づいていたのか?今更戻しても手遅れじゃないか、あいつびびってんなと笑われるんじゃないか?それともここはもう男の道を通すしかない?静かで穏やかな時間と空気の流れを僕一人がなぜか逆走している。
結局のところ、16ページだけだしと思い、すらすらとそのまったくもって綺麗な文体で書かれた、クリエイティヴな比喩に溢れる二つの胴体の絡み具合を僕は拝読させてもらった。本棚に戻した時、額の汗を手の裏で拭いたら、それが窓から差し込む太陽に反射してキラキラと光っていた。初めて日本語で官能小説を読んだ、しかも公共な場で。ワイルドだろう。
二杯目のコーヒーの隙間に地下のお手洗いに行った、そしてそこの「ひと棚だけの古本屋」に目を奪われた。これも店主の思いが込めた試みだなと感心しながら、上から二段目に置かれた村上春樹の『レキシントンの幽霊』を手に取った。開くと中には綺麗な字で書かれたコメントのブックマークが挟まれていた。こういったちょっとしたタッチがこの店の隅々に刻み込まれている。そしてこういったブックマークに関しては、僕を無抵抗化させるほどの力を持っている。見えないどこかの誰かが数百円の利益のために転売するのではなく、しっかりと生きている一人の人間からこの本とこの本に込めた思いを一緒にいただくように思わせるからだ。
「僕も村上の本が好きです」と爽やかな男性の店員さんに声かけられた。「この本棚にある本は僕の蔵書です、よろしかったら席でもごゆっくりしてください。」
ブックマークのコメントがあって助かりますと礼を言って、僕は席に戻ってしばらく夢中で読んでいった。
やがて日も暮れて、そろそろと思い、あの可愛い木馬を持って一階のレジに行った。それを『レキシントンの幽霊』の本と一緒に渡し、会計を済ませた。
「ご来店ありがとうございます。韓国の方ですか?」と先程の蔵書の店員さんが玄関まで案内してそう聞いた。
(惜しい!まあ半分正解とも言えるけど)
「中国です。『ゆっくり、いそげ』の本を読んでここに来ました。機会がありましたらまた来ます。」と僕は言った。店員さんが大きくお辞儀をして、僕もそうしてお店を出た。
(あれ、自分のその言い方だと、本を読んでわざわざ中国から来たようにも解釈できるけれど…🤭 もう手遅れ、まあいいか…)