積ん読の存在意義
今日は本屋でゆっくりしながら二冊の本を買った。一冊は小説で、「犬。そこにいるのにいぬ」のダジャレがツボって、もう一冊は「記憶」をテーマにしたエッセイで面白かった。戻って本棚の一番上に置いといたら、「あー😩また積ん読が増えた」と内心で呟いた自分に気づいた。
元々読書は楽しい体験のはずなのに、この拭ききれない罪悪感はどこから生まれたのか?そしてふとこう思った。積ん読は「失敗した買い物、お金の無駄遣い」ではなく、「自分のための図書館を作っている」と、こうやってシナリオを書き換えればずいぶんと気が楽になった。我ながらなかなか良い思考転換だと思う。
そもそもなんで積ん読という現象があるのか?「時間がない」というのが普通に考えられる理由(言い訳)かもしれない。でも本当にそうなのか?固定な時間の総量の中から、「その本に時間を割り当てていない」と僕は考えている。決してそれを非難しているわけではない。本は「ある特定の空気の流れ」を要するものだと思う。何もファーストフードのように数分で飲み込めるものではない(まあ速読術はあるようだけれど、あれはどうしても抵抗がある)。腰を据えてじっくりと一冊の本と向き合うには、その時の心境とか、ムードとか、心の余裕とか、人生のフェーズとか、ひょっとしたら日差しや体内の糖分と塩分の割合にも左右されるかもしれない。それらが噛み合わないときは、一度「購入」という行為まで至ったとしても、「読む気に今はならない」場合がある。
もしかしたら大多数の方は今日までの僕と同じように考えているのではないだろうか?積ん読はよくないと、贅肉のように減らしたいと。「積ん読」という単語が登場したこと自体、その風潮の表しではないか。でも積ん読という現象は多分存在して当然で、むしろ存在して構わない、わざわざ正当化する必要もないのではないかと、この記事を書きながら悟った自分がこうやって問題提起を試みる。
まず読書は極めて個人的である。個人的な行動にはその人の癖がついてくる。真夏に火鍋、真冬にアイスクリーム、早朝にカレー、深夜にコーヒー。理屈で突っ込むのは愛想がない。その癖が多少ズレたとしても、その人が満足すればそれでいい。少しマイペースで、わがままで、いわゆる「最善・最適の方法」に背けた癖が人間を人間たらしめる。
また、本を購入した瞬間を思い出してみよう。知識の実用性、物語の壮絶さ、装丁のデザイン、流行り物への関心、何かしらに惹かれたのではないか。その高揚した気分が何かに遮断され、読むという行為に至らなかったのは望ましくないことかもしれない。でも逆を言えばそれはその感情を一旦後回しにした、時間の運河に預けたとも考えられる。いつか読書の再開は過去の自分との再会にもなるので、その本に期待していたことを思い出しながら現状と比べるのも面白い体験かもしれない。なので、僕は本を買ったらまず最初のページに日付と場所、そして本屋の名前、もし誰かに勧められたのであればその人の名前も一緒に書いている。後でもう一回ページをくくる時に、「たしかにあの時はあの事情があって、あそこの本屋で買ったんだな」と少し嬉しい気分になる。
最後はぜひ「視野に入る力」を体験してほしい。本棚やデスクなど、目に入るところに置くことでそのリマインド効果は抜群。何かしらの実用性に迫られた時や、何かしらの「答え」を求める時、まだ読んではいないけれど、どの本を読めばなんとなくヒントがもらえそう、そういうふわっとした感覚が強力な盾となる。「常に視野に入る」のと「クラウドにあるから検索すれば出てくる」の両者では、言葉通り天と地の距離がある。まさに身近な図書館。これも僕が紙の本をあえて選んだ理由の一つである。
繰り返しになるが、「自分のための図書館を作っている」と考えて、堂々としよう。積ん読という行為は消えないだろうと思うけれど、「積ん読」という単語とそれに帯びているネガティブな気圧はもう日本列島から消え去ってもいいのでは。いかがでしょう?