結果がすべて・再考

チームに、こういうタイプの人がいたことがある。

責任のバトンを、自分から他人へ、他人から環境へ、環境から文化へと渡していくのが妙にうまい。

チームが疲弊しているとき、誰かが静かにフォローに回っているとき、そういう背景を察せないまま、自分だけ普段どおりの軽いテンションで入ってきてしまう。そして、「いつも通り」のノリの一言が、逆に誰かの我慢の限界を、もう一段押してしまう。

そこを指摘されると、まずは「みんなが教えてくれなかった」になる。次に、「言われたけど、指示が曖昧だった」になる。そして最後には、「日本の、こういう曖昧さ頼りのコミュニケーションが嫌いだ。やってほしいことがあるなら、オブラートに包まずストレートに言ってほしかった。だから日本のこのカルチャーは……」と、なぜか日本文化全体の話になっていく。

うん。一見、理屈にはなっている。そういう解釈もできるだろうし、その人の特性を考えると、たしかにもっと明示的なコミュニケーションのほうが効いたのかもしれない。

それにしても、まずはチームに迷惑をかけたことを認めて、自分の代わりに尻拭いをしてくれたメンバーに謝る、という発想はなかったのだろうか。

周囲が失望するのは、実はそこだったりする。最初に向くべき方向が、迷惑をかけた相手ではなく、自分の正当化に向いている。その発想の限界が、そのままその人の器の限界として見えてしまう。


「結果がすべて」。

これはスポーツで一番よく聞く言葉かもしれない。大会が終わり、理想の目標に届かなかったとき、監督や選手たちがよく口にする。責任を引き受けるために。あるいは、覚悟を示すために。

僕はこの言葉に、ずっと少し引っかかっていた。

「結果以外にも、いろいろあるでしょう」と思っていた。特に、自分が長らく応援してきたチームであれば、その奮闘の軌跡を一緒にたどってきた一人のファンとして、「結果」以外にも語りたいことがたくさんある。労いの言葉もあるし、感謝の気持ちもある。

プロセスも大事だ。その過程で見せてくれた精神力もある。それに鼓舞された人々もいる。それを勇気に変えて、また明日の仕事に向かう人々もいる。

だから当事者が「結果がすべて」とだけ言うとき、こちらの気持ちとしては、もっと語ってほしいと思っていた。

でも、たぶん彼ら、彼女らは分かっている。

多くを語る必要はない。ずっと見てきた人には、その過程はすでに見えている。伝わっている。理解してもらえているはず。そこで語りすぎると、前述したような、延々と続く言い訳に聞こえてしまう恐れがある。

だからこそ、まずは結果を受け止める。

悔しい気持ちもあるだろう。弁明したいことも多々あるはずだ。それでも、いったん飲み込んで、「結果がすべて」という言葉に凝縮する。

「責任はこちらにある。これを糧に、次に結果を出せるようにがんばります」

こういう器量のあるスポーツマンは、やはり尊敬できる。そして改めて、「結果がすべて」という言葉に含まれている重みを感じさせられた。

我々も見習おう。

人を傷つけてしまったら。迷惑をかけてしまったら。まずはその「結果」を認めよう。そして謝ろう。それから次を考えよう。

そうしないと、いくら自分の思考ロジック言い訳を並べても、人は離れていってしまう。

オトナになりましょう。

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Qihuan Piao

朴 起煥

東京で働いている「外人歴」9年のソフトウェア「ライター」。いつの間にか納豆が食えるようになり、これで日本に慣れきったと思いきやまだまだ驚きが続いてる。読んだり書いたりするのが好きで、自身の経験や本から得た「何か」をここに書き出してる。最近古本屋にハマってる。