2016年9月 5日 #life

アメリカビザの申請フォームを記入していた、DS-160というやつ。

名前やパスポートなどの基本情報の後に一連の過去を遡るような質問が続いていた。大学や過去に務めた会社情報を入力するように要求された。久しぶりに卒業した大学のウェブサイトを開き、住所と電話番号まで入力した。幸い今の会社で5年務めたから過去の会社は記入しなくても済んだ、5年がその境界線らしい。そこからいくつか違和感というか、気になったのは「生身の親の名前と生年月日」や「家族に犯罪を犯した者はいたのか」のような質問などだ。フォームの記入が終わってても、モヤモヤした気持ちは晴れなかった。

面倒くさいと思ったわけではない(ビザの申請は大抵面倒なことだ)。何かが引っかかった。それは「記録」ということなのかな?

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誰が生身の親になるかは自分に選択の権利がない。仲が良くても悪くても、わけあって自ら関係を絶えたとしても、一生この項目に逆らえない、弁明もできない、認めたくなくても永遠に「その人」の名前を記入しなくちゃいけない。

また仮に家族に犯罪者がいたとしたら、その質問に対しては「YES」と選択しないといけない。もちろんYESと答えたからビザが下りないことはないだろうけど、少なくともそういった「記録」は一生背負うことだと思うと気が遠くなる。

学歴や就職の履歴は上記と違って自分の判断や能力と行動でだいぶコントロールができる。何か文面に落とすと恥ずかしい過去があるとしたら自己責任、自業自得というふうに一般的に見られるだろう。しかし中ではレアケースがあるのでは?そのイレギュラーな事例に対して耳を傾ける人は公的機関に存在するのだろうか?

ちょうど僕が大学の入学試験を受けた年に家庭内が色々が問題が起きて、当時かなり父と対立、激突してた。
家で漂ってる無形な空気は刃物のように、触れるだけで皮膚が裂け血が出そうになるくらいの戦闘態勢だった。喧嘩後は髪型を丸坊主にして家に入って父の怒鳴りの顔を見て、かすかに僕は微笑んだ。こういうささやかで愚かな「復讐」は当時の自分には必要だった、ただの反抗以上の意味があった。それがエスカレートーしたらもう大学に行かず、あるいは志願書を適当に遠いところの大学に記入すればもっと大きな復讐になれるかも、とも妄想した。

そこからなんだかんだ事態は収まり、僕もそれ以上の投げ出しの行動はとらなくて済んだのはよかったが、一歩間違えれば今の人生とは真逆な結果になったのかもしれない。そしたら僕という人間はまだ同じ人間なのか、何のマイナス記録もない「白」の自分と、一時的に衝動的な行動を取り「汚れ・恥・不都合」の記録を残してしまった自分、果たして同一人物だと主張できるだろうか。別の世界線で「そっち側」に行ってしまった場合、こういったフォームを記入して、面接官にはどう見られるのか?大使館を出た時、世間からはどう接してくれるのか?それとも紙一重のように見える選択肢の中で、結果論として「正しいかつ冷静な判断」を下したからこそ初めて評価の対象になるのか・・・

decision

だいぶ脱線してしまった。

まあこのDS-160というフォームを記入して、なんとなく世間と社会は厳しいという印象を受けた。「個性」を訴える風潮があっても、こういった公的機関にはどんな理由があろうと、記録として残されたものはもみ消せないし否定もできない。「一つ一つの決断の在り方がその人の人生を形作っていく」のようなポジティブ、表向きの言葉もあるが、その反面、この厳しい世界で少なくとも不利な、不都合な記録を避けられるのなら、工夫して避けよう、融通が効かない場合に備えて。

p.s. 一応僕は家族といい関係だと思うし、自分も含めて家族も法律を守って、レールに乗って生きてきたのだが、なぜそこまで妄想が膨らんだかはまだ不明。もしかしたらちょうど「コンビニ人間」という本をこの時期読んでいたので、気が動転したのだけかもしれない。