"Writing"の記事

日本語を勉強し始めた頃に書いたもの、13年前くらいかな

久しぶりに実家に帰った。そのついでに昔の写真やノートを探してみた。掘れば掘るほど面白いものが出てきた。幼稚園の時に描いて絵とか、集めてた恐竜のプラモデルとか、それらを見ながら爆笑が止まらなかった。

その中で大学時代のノートがあった。おそらく日本語を勉強し始めた頃に書いた、あるいは書かされた簡単な作文だった。今読んでみると当然いろんな問題点が目立つーー文法の間違い、単語の不適切さ、小学生っぽい内容の薄さ、さらに字の汚さ…でもほんの少し自分ぽさもあった。「当時の自分という人間はそう書いたであろう」的な文章、本とか、生死と存在とか…

続きを読む…

なかなか面白かったので、個人的な趣味としてここに載せてみます。

私の大学の自学室(ホームルーム)

note-1

本について

note-2

私はどこに存在するか

note-3

僕はこの三つの文章についてどれ一つ全くもって覚えていない。なんで書いたのか、誰に向けて書いたのか、書いてそれをどうしたのか…記憶の断片

ちなみに、「私の大学の自学室」の隣のページでは「定番な」日本語教科書の内容が書かれていた…

note-4

それふうにエンディングしましょう。

これは誰が書いたものですか?
これはkinopyoが書いたものです。

2018年04月14日(土) Writing, Japanese

誰に読まれたいのかーー検索エンジンか、人間か

ライターとブロガーの鍛える筋肉について

ブログを新しく始めている人、真剣に取り組んでいる人、ブログで生計を立てている人、誰でも通る道であろうSEOと、それがどう書き手のモチベーションに影響するのか、いくつかの感想を伝えたいと思う。

続きを読む...

まずSEOとは「検索エンジン最適化」の略称で、グーグルのような検索結果の上位に自分のブログを載せるために、色々と工夫することである。どういうルールで一位と評価されるかは複雑でかつ企業秘密なので、細かな詳細は公開してないが、「いいブログ市民」になるためのガイドラインは出している。それがまたネット環境の進化と変化により年々更新していく。

人気のあるブログを見ると、冒頭に大きな写真を用いたり、サブタイトルをきちんととつけたりして、読みやすさを向上するのがある。ただ、SEOのことを意識し過ぎたものも存在して、例えば読み手が「脳死状態」でもこれだけは絶対見逃して欲しくない部分を、大げさな太字+大文字コンボにしたり、ハイライトの線を引いてくれたり違う色にしたり、インターナルリンクを多数使ったり、SNSへの投稿を(露骨に)誘導したりして、釣りタイトルや、釣り画像も濫用されるのがある。

情報溢れる時代で、人間が一つのWebページに与えられる「離脱するまでの猶予時間」は限りなく少なくて、目を惹かれる写真は効率的な対処法かもしれない。実際の内容と関連性がなくても、萌キャラの女の子を表紙にするだけで、ネットならより多くのクリックを、本屋ならより多い人の手にとってもらえるかもしれない。

「検索エンジンにインデックスされない、イコールインターネットに存在しない」」と、どこかで読んだのを思い出し、だからみんなが注力するわけだ。

もちろんデジタルだからこそ、リッチメディアのアドバンテージを駆使して、よりいい形に情報を整理し提供するのは全然ありだが、周りの環境を見る限り、少々行き過ぎた感はある。少なくとも同じ「文字」を扱い、「情報」を伝える同士のはずのネットを媒体とするブロガーと、紙を媒体とするライターの間では、鍛える「筋肉」が違うと確信した。


一つは、「人間という読み手への最適化」をする前に、「マーケティングとマシンへの最適化」を優先してしまっている点。

ライターの場合、小説の作者だろうが、企業のコピーライターだろうが、それの成果物はすなわち「文字の集合体」のみ。それだけで勝負するから、余計なものを入れる余地がない以上、自然に意識するのは読み手への最適化。

ブロガーの場合、コンテンツ以外ーーつまりSEOのためにーー力を入れすぎて、かえって全体が読みにくくなるのが問題。読みたい文字よりも「周辺のノイズ」がより目立って、ビジネス臭いを匂わせる。読者を意識して、読みやすさのためにブレイクを入れたり、サブタイトルをつけたり、ポイントを強調したりして、文章の構造に手を入れるのはウィンウィンのはずだが、その一線を超えた激しい「セールピーチ」は逆効果で、こっちは引いてしまう。


もうひとつは、ブロガーのモチベーションとフィードバックの問題。

何事も同じで、ブログを開設するのは簡単だが、続けるのは難しい。参入障壁が低い分、途中で脱落者も多い。要因は人それぞれだが、ここで特筆したいのは書き手にとってのフィードバックだ。

ブログのフィードバックってどうやって測るのか?一般的にはアクセス数やSNSへの拡散、金銭的には広告の収入などが考えられる。そのピラミットの頂点に立った人は、また初心者に向けて丁寧に「こうすればロケットのようにアクセス数が伸びるよ」的なものを書き、みんなを同じ方向へ導こうとする。

それはそれで知識の伝達にはなるが、その数字で測れる「頂点」を目指してこのブログの世界に入った人にとっては、敗北も同じく数字で残酷に、明確に測れる。

どんなに書いてもその「数字」が伸びないから、モチベーションが下がり、挫折し、やがて諦める。もちろん色々と試して自分に向いてないものは、綺麗さっぱり撤退するのも重要だが、中ではきっと書くこと自体が好きだが、「書いてて手応えがない、アクセスが少ない、誰もシェアしてくれないから私は書くのをやめる」、という人がいて、そのやめ方は一番残念なパターンだと思う。実に残念。

映画『インテーステラ』の中で無限に広がっている宇宙を、主人公が一人で彷徨い続けるシーンがあった(だいぶ昔に観たのでもしかしたら似た題材の『グラビティ』だったかもしれない🙏)。燃料が切れた以上推進力を失い、叫ぼうとしても何も聞こえない「無の空間」は切ない。

このブログもそのような空間を走行していた時期があった。「数字のフィードバック」だけを頼りに先に進み、行き詰まっては挫折し、ブログを完全停止にした時期もあった。再開のきっかけは、やはりどうしても、何か書きたい気持ちが抑えられなかったからだ。

「書くことは自分を知ることだ」と『僕だけのいない街』に八代学がそう書いていた。何か自分の中でまだもやもやした「課題」を見つけ、書き出す工程で納得の行く結論に導かれることがどれだけ爽快なことか、だったらSEOやらSNSなんざ気にしなくだっていいじゃないか?次の何万クリックを目指す記事よりも、自分が好きなものを書けばいいじゃないか?

「検測エンジンでの評価=人間が読みたいもの」とは違うし、クリックウィンを求めるネット民衆のマインドセットが変わらない以上、いくらマシンとそのアルゴリズムが進化したとしても、決して全ての人間の意思を反映することはできない。

ので、マシンの評価を無駄に意識して、自分の文章を妥協したり、挫折したりするのは本末転倒だと思う。自己満足に過ぎないかもしれないが、自分の中の「内なる声」に耳を傾き、それを引っ張り出し、再構築し、発信し続けることにきっと意味はある。「どんな髭剃りにも哲学がある」のように。読者はそのうちきっと集まる。

8年間ブログをやってきて、今更自分らしい文章のフォーマットを探り始めたところの一編だった。

2017年07月23日(日) Writing