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もの書きの引き出し(からのちょい出し)

君はワンちゃんかい、猫かい

自分が見た夢を人に伝えるのはとても難しい。

理屈が通用しない世界、順序が前後し、とりとめもなければオチもない。これをただありのままに話しても、聞き手にとってはなんにも面白くない。かといって、夢の世界観を借りて、少し話を盛ればそれなりの逸話になるかもしれないが、そのような修飾は、語り手としてはどうも腑に落ちない。夢に嘘を混ぜたら、それこそ真実とフィクションの挟間にある、どっちにも属しない話になってしまう。

それでも夢の中で経験したその生々しい感触を、誰でもいいからとにかく誰かに伝えたくなる場合がある。自分の身に実際にあってもおかしくなかった、そんな夢を。カーテンを開けて、日差しをどれだけ浴びても拭えきれないほどに、その感触はとても深いところまで染み込んでいる。簡単には片付けられず、どこまでも引きずってしまう。

ここからは僕がこの前に見た夢を感じ取ったままに語る。小説に出てくる夢のシーンは往々にして示唆に富む話だが、僕がこの現実世界で見た夢はそんなことない、たぶん。だから読み手に何か有意義なことになるかと言われると、恐縮な気持ちになるが、どうしてもこの夢の情景をキャンパスに描きたい気分になった。そして絵心ないので、文字に引き換えている。


伝染病か何かで世界の人口は激減し、残された人類は生きるために、それぞれ小さなコミュニティを作って、共同生活をせざるを得なかった。(この辺はよく見るディストピアの作品に明らかに影響を受けてる。)

気づいたら僕は廃墟となった町をさまよっていた。食料探しに出かけたのだ。町はなぜかアメリカの大きな一軒家がずらりと並ぶ住宅街の形をして、人気がなく、路肩に放置された車にはぶん厚いほこりがたまっていた。ハトやカラスといった鳥たちの死骸があちらこちらに散らばっていた。飛行中に力が尽きてしまい、そのまま重力に引っ張られ、地面に叩きつぶされたみたい。

このまま食料が見つからなかったら、帰って「村」のみんなにどう説明すればいいんだろうと悩んでいるその時、一軒家の車庫の脇にぷるぷる震えている何かが目に入った。近くに行って確かめる。まだぎりぎり生きている小動物だった。人間以外の生き物はほとんど絶滅していたから、この出会いは僕を高揚させた。

その小動物はまだ赤ん坊のようで身体が小さかった。耳は比率に合わないくらい大きく、まるで象さんのようで、その一対の大きな耳で両目を覆っていた。何があっても目を開けるまいと固く決心したように見えた。まるでメデューサに石に変えられるのを恐れているみたいに。

小動物は酷寒と飢渴に必死に堪えてきたが、そろそろ限界のようだった。しかし僕は分けっこできる食べ物など持っていなかった。首の下にそっと手を差し出して、僕は聞いた。

「君はワンちゃんかい、猫かい」

(今になって思えば、これはいささか奇妙な聞き方だ。なぜかは知らないが、僕は犬と猫のどっちかだと確信していた。あの象のような大きい耳を完全に無視して。)

その小動物は目を耳で覆ったまま、舌で僕の手のひらをなめなめしながら、「ミャーォ」となついてきた。

「助けないと」と僕は思った。その子猫を両手で注意深く持ち上げて、ジャケットの左側の内ポケットに入れた。危うい状況に陥ったが、その生命力が発する熱はシャツを通し、僕の心を温めてくれた。右手でジャケットの襟をしっかり掴みながら、僕は帰路についた。子猫は始終大きな耳で目を覆っていた。


秘密基地というべきか、アジトというべきか、僕が属する「村」はどうやら鉄道倉庫を拠点としている。重い鉄の扉をちょうどひとり通れるくらい引っ張って、僕は中に入り、また素早く扉を閉めた。

あたりは薄暗く、気休め程度に窓がいくつかあった。天井は大きいものの、たくさんの貨物コンテナが倉庫いっぱいに積んであって、空気の居場所さえ奪ってしまう勢いだった。生活用品の一つすら見当たらず、果たしてどうやって生きているか、真面目に突っ込むだけ野暮だ。

「食料は見つかったか」とリーダー格の人に正面から聞かれた。声に尊厳さがにじみ出るが、顔を見ると意外にもまだ子供だった。ガキ大将という言葉が思い浮かんだ。そこで初めて自分も小学生の体つきであることに気付いた。どうやらここは生き延びた子供の集まり場のようだ。

周りの視線を感じる。倉庫に入った時は人の気配ひとつ感じなかったが、ガキ大将の一言で身を潜めていた「住民」たちの存在に僕は気づいた。貨物コンテナの上に座ってこっちを睨んでる人、影に隠れて耳を傾けてる人、その神秘さは『ハンターハンター』の幻影旅団を思わせた。暗殺者たちではないけど、「表の光」が好まない子供たちの集団のようだ。

返答に窮した僕にガキ大将は不審を思い、接近してきた。鋭い目はすぐに僕のジャケットの膨らみに気づいた。

「ふざけんな!ただでさえ食料不足なのに、猫なんか飼えるわけねいよ!」とガキ大将が責める。

子猫は鳴いてもないし、しっかりとジャケットのポケットに隠しているのに、なぜわかった?あなたの能力は透視眼ですか!?と思わず口に出すところだった。

いろいろな感情が込み上げてきた。

彼の指摘通り、この状況で子猫を拾ってくるのは、ただでさえ足りない食料を、みんなから奪うことに等しい。その責任は僕が取れるのか。この残酷な世界にこんなわがままは許されるはずがない、そんなことも忘れ、一瞬の衝動に駆られた自分が恥ずかしかった。それでもこの小さな生命はほっておけなかった。それは奇跡であり、希望そのものだ。そしてこの世は今まさにそれを求めている。

しかし何よりも恥ずかしかったのは、僕は犬派と自己主張してきたのに、実は「隠れ猫派」だと見抜かれたことだった。これは何より僕を混乱させた。自分はいったいどっちなんだ?「君はワンチャンかい、猫かい」の質問をしたとき、僕自身はどんな返答を望んでいたのか?僕が強く願えば、この小動物は僕の意思に応えるように変形してくれるはず、そんなふうにさえ思えてきた。なのに僕はあのとき判断を下せなかった、それを流れに委ねた。その迷いが具象化し、この局面まで発展したのだ。

僕に注がれている目線が鋭い刃物のように感じた。ガキ大将は太くて長い腕を伸ばし、「そいつをよこせ」と命令した。僕は左足を一歩下がり、重心をそこに移し、対抗の姿勢をとった。ろくなことは言えず、ただ「それはやだ」と子供ぽく連発しながら、ジャケットの襟を右手で強く握りしめた。その隙間から子猫に目をやった。両目を覆われていた一対の耳はいつのまにか通常の大きさに戻り、子猫は目を開けて、じっと僕のことを見つめていた。魂が宿っているきれいな瞳だった。そして最後にもう一回「ミャーォ」と鳴いた。

そこで幕が閉じ、夢の終わりが唐突に訪れた。僕は煮えきらない気持ちで朝を迎えた。

2019年05月12日(日) dreams

からかい下手のゾウキンさん

去年の半ばに外資系に転職した。見た目も性格も多彩多様な外国人軍団、面白い初対面が多々あった。

大柄で、丸坊主で、目つきが悪く、顔がめちゃくちゃ怖い人が、実はポーカーフェイスの、自分を犠牲にしてもジョークを優先する、サービス精神旺盛な人だった。

ガタイがよく、七三分けの髪型にハンサムな顔、しかし振る舞いが芝居掛かっていてチャラそうに見える人が、実はオチの前によく大爆笑して逆に場を壊す、ピュアな少年だった。

そんなふうに、時が経つにつれ、少しずつ周りの人たちへの理解は深まっていく。しかし、第一印象があまりにも衝撃的すぎて、まったく払拭されない事例が一つだけある。

入社して間もない頃、同僚二名と一緒にランチを食べに行った。一人はインドネシア人のHさん、一人は日系メキシコ出身のEさん。僕たちはお店の中央にある大きなラウンドテーブルの席に案内され、週替わりを注文した。そして話題はその夜に開催する社内のサマーパーティーになった。

毎年、夏と冬に全社規模のパーティーが開かれるのは、入社オリエンテーションで聞かされた。大陸ごとに分かれて開催し、僕らが属するAPECでは、中国と韓国とシンガポールの社員も東京に招いて全員で大掛かりのイベントを行うそうだ。

「過去ではクルーズを貸し切って夜の東京湾を駆けたり、ディズニーランドの一空間とミッキーマウスたちを一人占めしたりしてたな」とHさんは懐かしげに言った。

流石にアメリカ企業、想像を絶するスケールだと僕は感心した。

その後もしばらく彼らの話を聞いていたら、なぜかワンピースのマンガの扉絵が思い浮かぶ。ルフィと彼の愉快な仲間たちが満面の笑みで宴を楽しむ心温まる光景。このサマーパーティーはきっとそんな感じなんだろうな。日本企業でありがちな半ば強制参加で、お偉いさんの延々と続くスピーチで乾杯が遅らせる宴会とはまるで違う。

僕はちょうどサマーパーティーが行われる六月に入社した。オリエンテーションのとき、人事の方が「ちょうどサマーパーティーに参加できるね、よかったね」と言った。外国人軍団に自己紹介の時に、僕がそれをネタにしたら、「おぉぉ!ちょうどサマーパーティに参加できるじゃねーか!グッドタイミングだ!」とみんな僕の肩を軽く叩きながら言った。

グッドタイミンか。色々な人からそう言われたら、何故か、自分もそう思い始めた。それまでなんとも思ってないのに、クラスメートの冗談で、急にある女の子を意識するようになったみたいに。何をもってグッドタイミングと言うのか、評価の軸は彼らと違うけれど(ぶっちゃけ僕はそんなにパーティーに情熱を感じないのだが)、その時の自分にはこの転職が結果的にも良かったという実感を望んでいたし、「よかったね」、「グッドタイミングだ」と言われるのは、たとえお辞儀でも正直嬉しかった。

「女性たちは気合い入れて、ドレスアップしたりするんだ」とHさんは天井をぼんやりと眺めながら言った。そして視線を僕らに戻して、「でもまあ、野郎たちは見ての通り普段着だけどね」と話をまとめようとしたその時、「?」の疑問符が彼の脳内に浮かんだのが伺えた。彼はしばらくEさんの襟シャツをじっと見つめてから、何か悟ったように大きくテーブルを叩いた。

「お前、それ、パーティ服だろう?いつもパーティの時に絶対これ着るよな!前回もこれ着たよな!」一気に興奮したHさん。二週間あまりの付き合いで彼がからかい好きなのはわかっている。その勢いは東京03の飯塚が角田の合コンの勝負服を突っ込むコントを連想させた。

言われてみれば確かにEさんの今日のシャツは普段より一層輝いているように見える。生地がよく、襟がしっかり立っている。ファッションに無関心な僕はこれ以上のヴォキャブラリーを持ち合わせていないが、でも今日のEさんそのシャツをまとって、いかにも「できる男」のオーラーを出している。

Eさんは虚をつかれたか一瞬言葉を失った。「なんだお前も気合い入ってんじゃん」と追撃するHさん。しかしEさんはいつものクールさを崩さず、回復のひと時を要してから、無言でさっと中指を立てた。そして冷徹な口調で言い返した。「お前の服のセンスよりマシだろう。いつも雑巾みたいな。」

この反撃はHさんは予想しなかったのか、今回は彼が逃げ場を失い、咳払いをして場をごまかそうとした。

この攻防戦を横で見ていて、僕はけっこうヒヤヒヤした。このような会話や中指を立てるのは日本人同士では絶対ないでしょう。同僚ではなく、むしろ同級生みたいだ。異郷人同士で、かつ英語だからこそ、30、40になっても隔てなくこんな冗談が通じるかもしれない。

Hさんがうろたえる隙間に、僕は改めて彼の洋服を眺めた。普段から無造作ではあるが、清潔感にはけっして何の問題もない。でもなぜなんだろう、手入れが行き届いてないのか、言われてみれば、確かにHさんの洋服は雑巾のヨレヨレの質感にかなり近い。

このできことを境に、僕はHさんの洋服に目を配るようになった。そこから十ヶ月経った今、そのスタイルは、あるいはセンスは、季節に影響されず恐ろしく一貫している。一貫してヨレヨレしている。彼はからかい好きで、エレベータを待つ合間でも、弁当をレンチンする合間でもいつも誰かに先手を打つが、大体ワンラウンドで敗れてしまう。それでも諦めることはなく、来る日も来る日もからかっていく。その不服の精神に、もはやリスペクトせざるを得ない。

こうやって彼は僕の中で「からかい下手のゾウキンさん」と化している。彼が自分のブランドイメージを挽回する日は、果たして来るだろうか。

後記:年末のウィンターパーティに、Eさんは違う襟シャツを着ていた。

2019年04月04日(木)

本:『魔眼の匣の殺人』、呪いと予言と予知

『死人荘の殺人』の続編。設定も人物もそのまま受け継がれ、ホームズとワトソンが次のミステリ事件に巻き込まれる。

序盤はあまりにもペースが遅過ぎて全然進まなかった。もし前作を読んでいなかったら、恐らく諦めたかもしれない。中盤に入り、(言葉はあれですが)一人目の被害者が出てからは、ようやく勢いが増して、最後の死闘までテンポよく突き進んだ。

前作ほどの衝撃はなかったが、これはこれで、斬新な発想でいい頭の体操になって、けっこう楽しめた。

魔眼の匣の殺人
今村 昌弘
東京創元社
売り上げランキング: 1,290

余談になるが、ミステリ小説は定義上どうしても謎解きや犯人探しに注力するため、登場人物の内面の描写が欠けている。まだあまりわかってないのに、あっさりと死んでしまったキャラクターもいる。ミステリの部分にウェイストを置かないと、そもそもミステリ小説にならないから、欠けざるを得ないか。

そうするとちょっと問題になるのは、作者が最後にその犯罪動機を開示しても、こっちとしては、それをうまく呑み込めない場合がある。多彩多様な登場人物、せっかくの素材が不完全燃焼でこうも唐突にキックアウトされたり、軽々と犯罪を犯したりして、腑に落ちないというか、もったいないというか、物足りないというか…そんなモヤモヤになることがある。

その消化不良を治すために、本作での何人かの人物について、もう少し自分の妄想を書き伸ばしてみた。生地を揉み伸すように。


👉以下ネタバレになるので、クリックしてお読みください

王寺

「貴重品」をバイクに置いてきた、置くべきではなかったと語る王寺の未練めいた言葉は、何か変だと思った。凶器ではないかと推測したが、それがまさか御守りとは。他にも体には魔除けと思われるタトゥーが彫ってある。三つ首トンネルに行った他の仲間は次々と謎の死に巻き込まれ、彼が唯一の生き残りだった。

そんな彼はきっと恐怖に追われる日々を送ったんじゃないか。もしかしたら、バイクであちこちを駆け回り、少しでも魔除けできる奇人に助けを求めたり、あらゆる御守りをかき集めたりしていたのかもしれない。東京での暮らしを完全放棄し、関西に移転したのも、災から逃げている匂いがする。完全に三つ首トンネルの呪いに心身を潰されてもおかしくないのに、珍しいことに、彼はまだ明るい一面を保てていた。

スポーツが苦手だと悩んでいた純くんには、こう励ました:

「子供の頃は声が大きくて足が速い子が目立つものさ。男らしさってのは、女の子を大事にできることだよ」

読み返したら、彼は確かに紳士だった。臼井に恫喝される神服さん(なぜかここだけ「さん」をつけた)を庇ったり、軟禁と言い出された十色のために弁明したり、葉村くんに代わって、ベッドのない地下の部屋を身から選んだりした。しかもこんな気の利いたセリフで:「ツーリングでは野営することもあるしね。屋根と布団があるだけで天国さ」。

団体行動でもいろいろと気配りを見せていたが、それは臼井が「呪い」に殺されるまでだった。またの変死に、今まで逃げ続けた、あるいは逃げ切ったと思った呪いに、きっと魂胆も震わせたんだろう。

同じく三つ首トンネルに行ったことのある臼井が、不可抗力の地震に呑み込まれた。命の重さはまるで煙草の吸殻よりも軽い。また、トンネルに行ったほか三人の友人の死は、実はサキミはすでに予知していて、その彼女から、この二日間で男女二人ずつが死ぬと告げられた。さらに、彼の精神崩壊の決定打になったのは、初対面の十色は絵を描いたらそれが現実となり、その都度誰かが死にかかる状況に陥る、彼にしてみればただの謎と驚異の能力者だ。呪いに、予言に、予知。王寺にとっては、これはもうたまるもんじゃない。

そこで、サキミの予知能力を逆手に取り、他人の死でその枠を満たせば自分はこの何重もの呪いから逃げられるとでも思った。そこからは自己正当化しながら、一歩一歩闇に落ちていった。

吉見に来なければ、ガス欠にさえならなければ、彼もまた全然違う人生を送られたのではないか?
運転するんだったら、ガス欠には絶対気をつけよう。。

茎沢

確かに口を開ける度に周りを不快にさせる、短絡的な考え方の持ち主だ。十色の超能力の唯一の理解者ではあるが、彼自身の思い込みが強すぎて、会話は一方通行。

でも彼もまだ高校一年生だ。その歳の、特に男の子にはそれくらい夢中で短絡で愛慕の感情に走らせるのも、ごく普通のことじゃない?

十色への想いは純粋な利他的とは言えないが、完全に利己的でもない。彼は十色のその予知能力に救われ、そして彼女がその能力ゆえにいじめにあったり、不自由な生き方をしたりするのをほっとけなかった。先輩の能力は人の役に立つ、先輩は尊敬されるべき存在であることを世間に証明したかった。今はその証拠集めで、データが揃えれば十色に相談すると言った。

十色は当然それを望んでいない。能力なんてうんざりだ、普通の生活を送りたい。しかし、それを茎沢には伝えていない。彼女もまだ高校二年生、二人とも自分のことでいっぱいで、かつ感情表現が下手な年頃じゃないか。もし、この異常な環境を生き延びて、事件を通して互いに本音を言えたら、彼女の支えになろうとした彼は、きっと真の理解者になっていくんじゃないかな。

十色が悲惨に殺され、彼はきっと自分のせいにしたんだろう。守れなかった。あのとき強引でも先輩を部屋から開放されるべきだった。そして皮肉なことに、結果的には、彼の熱弁した推理は実に正しかった—犯人(王寺)は十色の絵を覗き見して、それに合わせて現場に花をばら撒いたし、サキミもまた嘘をついていた。凄惨な十色の死体の前で絶叫し、失意のまま魔眼の匣を飛び出し、山の奥へと姿を消した彼が、次にみんなの前に現れたときは、腹を引き裂かれ、あちこち齧られた死体となった。

彼は最後、どんな思いをしていたんだろう。悔しい、情けない、怒り、無力。静寂な夜中に山の奥を彷徨い、進み道もなく、戻るすべもなく、凶悪な熊に遭遇し、ぐちゃぐちゃにやられた。尊敬する先輩と、せめて死に方は似ていると慰めを得たのか、倒れる寸前、目に映るいっぱいの星空に、「こんなはずじゃなかった・・・」と嘆いたのか。寒風は彼の涙に籠もる最後の熱を乱暴に奪い去った。

あまりにも無慈悲だ。


他にも朱鷺や岡町についてもカメラを回したいのだが、もう長くなってるから、一旦ここで切ります。

ノンフィクションなのに、なんでこうも惜しむんだろう、ね。

2019年03月21日(木) Book

カウンターの向こう側に立つ(2)——変わってくる日常の風景

前回:(1)33歳からのカフェバイト

僕が働いているブックカフェは繁華街のとある商業施設の四階にある。名前の通り本屋とカフェが融合した空間で、未購入の本でもカフェでじっくり座って試し読みができる。店内にはWifiとコンセントが整備されていて、コワーキングスペースやミーティングの場所としても利用できる。クラフトビールやレモンサワーなどのアルコールメニューもあり、仕事帰りでサクッと飲むのもなかなか快適。

僕は元々は一人の客としてその空間に陶酔し、果敢に応募したわけです。そしてブックカフェのスタッフとして働き出した。エンジニアの時期と比べると、日常はガラリと変わった。

まずは基礎体力が要る。僕は大体昼の12時から夜10時までシフトを入れていて、途中の1時間〜1時間半の休憩を除けば、基本は立ちっぱなし。それを週5のペースでとりあえず一ヶ月やってみる。

今まではデスクワーカーとして「溺愛」されてきた貧弱な僕にとって、最初は正直キツかった。初日の勤務がちょうどゴールデンウィークのピークに当たり、帰宅後、ソファに安らぎを求めた時に、ぼろっと転ばしたのは「あー、座るのっていいな」という言葉だった。足が痛くて、ベッドで横になってもまだ硬直状態だった。このままじゃ身がもたないんじゃないかと心配もしたけど、意外と人間は適応力が高い生き物ですね。この肉体の苦痛も、3日も経てばすっと慣れてきた。GWの連休も終わり、激務ではなくなったのも大きいけど。

僕らスタッフたちは基本カウンターの内側で作業する。この決して大きくはない空間の中での移動は、実はけっこう多い。スマホのアプリで歩数をカウントしたら、そこだけで一日一万歩を超える日もあったりする。熱々の食洗機からカゴを取り出し、お皿やコップを拭いて元の棚に戻したり、腰を下ろして冷蔵庫から仕込みやドリンクを出したり、閉店後椅子を全部テーブルに乗せて大掃除したりして、運動量が圧倒的に摂取量より多いから、実際三週間で約3kgも落とした。ジムで贅肉を意図的に削る鍛え方より、働きながら自然に痩せていくのは、なにか原始的でオーガニックな味がする。温室栽培より大自然で育ったみかんのほうが美味しく感じるように(単なる錯覚かもしれないけど)。

次に休憩の取り方が大きく違う。デスクワーカーの時代のランチタイムといえば、出動命令が出されたアリが巣から這い上がるように、「集団」で行動するのが常識だった。いわばチームランチ。そこで仕事の話をしたり、プライベートの話をしたりして、なんやかんやでコミュニケーションは取れていた。

ところでこのブックカフェ(あるいは世間ほとんどの飲食店など)では、その会社員時代のランチ常識は通用しない。言うまでもなく、スタッフが一斉に休憩を取ったら誰がお客さんにサービスを提供するんだい、という話になるので、休憩は交代で順次に取っていくようにスケジュールが組まれている。僕は昼の12時スタートなんで、休憩はだいたい4時以降になったりする。ブランチの午後バージョンは、なんと言うでしょう?アフランチ?

このような食事はやや不規則に聞こえるかもしれませんが、僕にとってこれは一つとんでもないメリットがある。うちの店は、スタッフでもその空間を利用できるし、カフェと本屋の従業員割引もある。お店のピークタイムを避けての休憩は、つまり気軽に使えるということだ。

スタッフの仲間にコーヒーとサンドイッチを頼んで、本棚から前から気になっていた本を取り出し、窓際の席でゆっくりひと時が過ごせる。自分たちが提供する食べ物とサービスと空間を、自分が実際の客になって満喫する、なんという贅沢。このようなサイクルがいい発見をもたらすのではないかと思う。ホットドッグの上に乗せる、砕いたミックスナッツは滑りやすいとか、カフェラテのミルクの温度が若干ぬるいとか、そういったささやかに見えて、でも大事なことに気付くようになる。

これだけは絶対ちゃんとやりたいというのがあります。食べ終えて返却台にトレイを返すときに、しっかりと「ごちそうさまでした」と向こう側の仲間に言うこと。自分でやっているからこそ、そのありがたみが倍増する。まあここだけじゃなく、毎日僕たちのために料理を用意しているすべての人に言いたいですね。

つづく

2018年06月28日(木) Cafe, Work, Diary

カウンターの向こう側に立つ(1)——33歳からのカフェバイト

「パクと申します。11時40分にKさんと面接の予定がありますが」

本屋のレジでそう伝えて、僕は担当者が来るのを待っていた。その1分足らずの間、僕は隣りの棚を意味もなく眺め、目のやり場に困っていた。喉は乾いていて、心臓のドキドキの鼓動が一段と大きくなっていた。いつぶりなんだろう、こんなに緊張したのは。生きている感触だ。

後にカフェ側の席に案内され、Kさんがやって来た。挨拶の後、こちらから履歴書を渡した。そこにはこの十年間、ソフトウェアエンジニアとして働いていた会社名が載っている。最後にこのような書類を準備したのは7年前だった。

それを手に取ったKさんは戸惑いの色を浮かべた。
「エンジニア…ですね。うちのブックカフェの仕事を応募するのは…エンジニアの仕事を希望ですか?」
「いいえ、カフェや本屋のスタッフとして働きたいです。アルバイトとして。」
そう答えて僕はカフェのカウンターを指差した。

Kさんの目はさらに見開いていた。「それはつまりレジやドリンク、洗い物などの仕事をやるんですか」と確認した。
「はい、そうです」自分に務まるのか、正直不安もありつつ、揺るぎない決意を示そうとしていた。心の底からこの仕事が懇願している。

なぜ、とまではKさんは口にしなかったけれど、明らかにその答えを求めていることが分かった。何か勘違いしていない?うちでいいの?というような確認の目線だった。確かに滅多にない話ですね。現役エンジニアが、33歳にもなって、なんでわざわざブックカフェでバイトを始めようとするのか。

その答えは今になってもよくわからない。それを論理的にまとめるにはまだ歳月が必要とするかもしれない。一つ断言できるのは、ただ、この仕事をしたい、お客さんの顔が見たい、そんな自分の気持ちに気づいたことだ。

面接は15分も経たないうちに終わってしまった。伝えきれなかったことがたくさんあった。

やらないよりやったほうがいい。最近はこの言葉に励まされ、損得をいちいち考え、優柔不断でいるよりかは、「やったほうがいい」のような確信を持てる物事については、とことんやる。この方がまず身が軽くなるし、いい結果を生み出せる気がする。


翌日。

一刻も早く電話に気づくよう、久しぶりに携帯のマナーモードを解除した。不安が膨らみ始めた頃に電話が掛かってきた。ぷるぷる震えた手で、スピーカを耳元に当てた。

朗報。
採用。

こうやって僕の人生初のバイトが始まったのだ、33歳の春から。

つづく:変わってくる日常の風景

2018年06月03日(日) Diary, Work, Cafe

本:屍人荘の殺人ーゾッとするほど美しく、魅力的なもの

屍人荘の殺人

何回も本屋で見かけ、一回読んでみたらドハマった。魔力があるように。

全体的に、とても「現代」の感じが漂う作品だと思う。時代背景も、スタイルも、キャラクターの言葉遣いも。今まで「本格ミステリ」って言ったらパソコンすら復旧していない、「過去」の設定のイメージが多く、小説自体の面白さに影響はないけど、「今」ではないのが多少は距離感を感じてしまう。本作がその「穴」をほどよく埋めてくれて、なおかつ新しい流行りの要素をモリモリ取り入れたのが、読者としてありがたい。

本の序文では受賞の言葉が載せられ、心に響く:「自分の想像で誰かを楽しませたい。その原点を忘れず、これからも邁進したいと思います。——今村昌弘」
そして、ミステリ固有の多数の登場人物を一瞬にして覚えやすくする巧技も、著者の親切心を感じられる。

これから読む方のために、ネタバレを避け、細かく語れないのがもどかしい。これだけはぜひ体感してほしい、というところをあげるとしたら…

「ホームズ」と「ワトソン」を借りて語る友情。
絵になるくらいの詩歌的アクションシーン。
「ゾッとするほどに美しい」、「二度殺し」の正体。
最後に問題提起した倫理観——人間の一番醜い部分を指差して、人でなしだ、許せないって非難することの妥当さ。そこから目を背けたい心。

「人は〇〇に対してそれぞれのエゴや心象を投影する」。その〇〇と対峙するとき、自分はどう映っているのだろうか、なんとなく、その妄想に耽る。

2018年04月30日(月) Book

西国分寺のクルミドコーヒーに行ってみた、物静かの中で一人スリル

『ゆっくり、いそげ』の本を読んで、一度は行ってみようとずっと思っていた。一体どんなカフェなんだろう、本で書かれた思い入れが実践されている場所なんだろうか、と期待を込めて家から一時間以上かけて西国分寺を訪ねる。

西口から出てほんの少し歩くくらいのところにお店があった。案外近い。本の中での世界をこれから体験するんだから、その興奮を抑えきれずまずは入る前に外観の写真を一枚。一瞬にして東京の住民から観光客に変身。

クルミドコーヒー外観

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中に入るとまず二階に案内され、六人掛けのテーブルに腰を下ろした。メニューをもらってまずこれに惹かれたーー「見た目華やかなれど、とっても食べにくいサンドです!笑」。その笑いは受け止めてあげないと、と思って早速このサンドとクルミドコーヒーを注文。伝票代わりに可愛い小さな木馬が渡された。

クルミドコーヒー伝票代わりの木馬

そしてゆっくりと周囲を見回す。お店は縦長にできていて、一階がレジやスタッフの仕事場で、二階、三階と地下が客用のスペース。僕が今座っている二階はカウンターが二つあって、真ん中に大きなダイニングテーブルが置かれている。深く濃いブラン色の一枚板のテーブルで触り心地がとても良い。

各テーブルには名物のクルミの入った小さなバスケとキノコの形をした品のよいくるみ割りがあって、「一つどうぞ」のメッセージカードが刺さっている。長野県東御市からやって来たそうだ。

クルミドコーヒー 名物のくるみ

全体的に何かがドカンと目立つことはなく、都会のザ・オシャレの店よりとは違ってここは物静かで、落ち着いた感じ。タッチの一つ一つはどこまでも一体感があって、うまく溶け込んでいる。まるで謙遜で優雅なバックグラウンドミュージックのように、人前に立とうとはせず、でも耳を済ませれば、その美しい響が居心地よく染み込んでくる。昼過ぎのこの時間帯は6割くらい埋まっているところか。

二階と一階の間の階段にはクルミド出版の本が置かれている。確かここに通っているお客さんの中に物書きの方々がいて、何かしらの形で支援したいという発想からできた小さな出版社と記憶している。並んでいる何冊の本の表紙も『ゆっくり、いそげ』で見覚えがある。

階段をさらに少し降りて、ドアの近い方の棚には「喫茶の文体」と書いたコーナー
あった。横の説明を読んで見たら、「喫茶店やコーヒーををテーマにした一冊8〜48ページの短編が15タイトルで、小説あり、エッセイあり、レシピ集あり(官能小説まで……)」と書いてあった。どちらも無地でエレガントな白い表紙にタイトルが縦に書かれている。

「よろしかったらお席に持って行ってゆっくりご覧ください」と隣の店員さんが丁寧にフォローした。よし、ここは一つスリルでミステリアスなのを選ぶぞ!と各タイトルを目でなぞりながら、一冊に視線を固めたーー『残り香の秘め事』。

それを席に持って帰ったら、ちょうど食事とコーヒーが運ばれ、僕は一旦その「秘め事」を横にずらし、腹ごしらえに取り掛かる。見た目華やかで彩りなサンドだけど、確かに預言通り食べにくい!でも美味しい!僕の食レポのボキャブラリーは片手で数えられるくらい残念で仕方ないけれど、これはなんか、甘えたいような、そんな美味しさだった。食事を終えコーヒーを口にするとスイッチがピタッと入って、『残り香の秘め事』のページをゆっくり開いてみた。「こ、これは…」

クルミドコーヒー 小説

ある意味スリルだった。まさか15冊の小説とエッセイとレシピ集がある中、僕は一発で官能小説を取ってしまった。これはどうしよう。先程店員さんがサンドとコーヒーを運んできた時は既に気づいていたのか?今更戻しても手遅れじゃないか、あいつびびってんなと笑われるんじゃないか?それともここはもう男の道を通すしかない?静かで穏やかな時間と空気の流れを僕一人がなぜか逆走している。

結局のところ、16ページだけだしと思い、すらすらとそのまったくもって綺麗な文体で書かれた、クリエイティヴな比喩に溢れる二つの胴体の絡み具合を僕は拝読させてもらった。本棚に戻した時、額の汗を手の裏で拭いたら、それが窓から差し込む太陽に反射してキラキラと光っていた。初めて日本語で官能小説を読んだ、しかも公共な場で。ワイルドだろう。


二杯目のコーヒーの隙間に地下のお手洗いに行った、そしてそこの「ひと棚だけの古本屋」に目を奪われた。これも店主の思いが込めた試みだなと感心しながら、上から二段目に置かれた村上春樹の『レキシントンの幽霊』を手に取った。開くと中には綺麗な字で書かれたコメントのブックマークが挟まれていた。こういったちょっとしたタッチがこの店の隅々に刻み込まれている。そしてこういったブックマークに関しては、僕を無抵抗化させるほどの力を持っている。見えないどこかの誰かが数百円の利益のために転売するのではなく、しっかりと生きている一人の人間からこの本とこの本に込めた思いを一緒にいただくように思わせるからだ。

クルミドコーヒー古本屋

「僕も村上の本が好きです」と爽やかな男性の店員さんに声かけられた。「この本棚にある本は僕の蔵書です、よろしかったら席でもごゆっくりしてください。」
ブックマークのコメントがあって助かりますと礼を言って、僕は席に戻ってしばらく夢中で読んでいった。


やがて日も暮れて、そろそろと思い、あの可愛い木馬を持って一階のレジに行った。それを『レキシントンの幽霊』の本と一緒に渡し、会計を済ませた。
「ご来店ありがとうございます。韓国の方ですか?」と先程の蔵書の店員さんが玄関まで案内してそう聞いた。

(惜しい!まあ半分正解とも言えるけど)

「中国です。『ゆっくり、いそげ』の本を読んでここに来ました。機会がありましたらまた来ます。」と僕は言った。店員さんが大きくお辞儀をして、僕もそうしてお店を出た。

(あれ、自分のその言い方だと、本を読んでわざわざ中国から来たようにも解釈できるけれど…🤭 もう手遅れ、まあいいか…)

2018年04月23日(月) Cafe, Trip

積ん読の存在意義

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今日は本屋でゆっくりしながら二冊の本を買った。一冊は小説で、「犬。そこにいるのにいぬ」のダジャレがツボって、もう一冊は「記憶」をテーマにしたエッセイで面白かった。戻って本棚の一番上に置いといたら、「あー😩また積ん読が増えた」と内心で呟いた自分に気づいた。

元々読書は楽しい体験のはずなのに、この拭ききれない罪悪感はどこから生まれたのか?そしてふとこう思った。積ん読は「失敗した買い物、お金の無駄遣い」ではなく、「自分のための図書館を作っている」と、こうやってシナリオを書き換えればずいぶんと気が楽になった。我ながらなかなか良い思考転換だと思う。

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そもそもなんで積ん読という現象があるのか?「時間がない」というのが普通に考えられる理由(言い訳)かもしれない。でも本当にそうなのか?固定な時間の総量の中から、「その本に時間を割り当てていない」と僕は考えている。決してそれを非難しているわけではない。本は「ある特定の空気の流れ」を要するものだと思う。何もファーストフードのように数分で飲み込めるものではない(まあ速読術はあるようだけれど、あれはどうしても抵抗がある)。腰を据えてじっくりと一冊の本と向き合うには、その時の心境とか、ムードとか、心の余裕とか、人生のフェーズとか、ひょっとしたら日差しや体内の糖分と塩分の割合にも左右されるかもしれない。それらが噛み合わないときは、一度「購入」という行為まで至ったとしても、「読む気に今はならない」場合がある。

もしかしたら大多数の方は今日までの僕と同じように考えているのではないだろうか?積ん読はよくないと、贅肉のように減らしたいと。「積ん読」という単語が登場したこと自体、その風潮の表しではないか。でも積ん読という現象は多分存在して当然で、むしろ存在して構わない、わざわざ正当化する必要もないのではないかと、この記事を書きながら悟った自分がこうやって問題提起を試みる。

まず読書は極めて個人的である。個人的な行動にはその人の癖がついてくる。真夏に火鍋、真冬にアイスクリーム、早朝にカレー、深夜にコーヒー。理屈で突っ込むのは愛想がない。その癖が多少ズレたとしても、その人が満足すればそれでいい。少しマイペースで、わがままで、いわゆる「最善・最適の方法」に背けた癖が人間を人間たらしめる。

また、本を購入した瞬間を思い出してみよう。知識の実用性、物語の壮絶さ、装丁のデザイン、流行り物への関心、何かしらに惹かれたのではないか。その高揚した気分が何かに遮断され、読むという行為に至らなかったのは望ましくないことかもしれない。でも逆を言えばそれはその感情を一旦後回しにした、時間の運河に預けたとも考えられる。いつか読書の再開は過去の自分との再会にもなるので、その本に期待していたことを思い出しながら現状と比べるのも面白い体験かもしれない。なので、僕は本を買ったらまず最初のページに日付と場所、そして本屋の名前、もし誰かに勧められたのであればその人の名前も一緒に書いている。後でもう一回ページをくくる時に、「たしかにあの時はあの事情があって、あそこの本屋で買ったんだな」と少し嬉しい気分になる。

最後はぜひ「視野に入る力」を体験してほしい。本棚やデスクなど、目に入るところに置くことでそのリマインド効果は抜群。何かしらの実用性に迫られた時や、何かしらの「答え」を求める時、まだ読んではいないけれど、どの本を読めばなんとなくヒントがもらえそう、そういうふわっとした感覚が強力な盾となる。「常に視野に入る」のと「クラウドにあるから検索すれば出てくる」の両者では、言葉通り天と地の距離がある。まさに身近な図書館。これも僕が紙の本をあえて選んだ理由の一つである。

繰り返しになるが、「自分のための図書館を作っている」と考えて、堂々としよう。積ん読という行為は消えないだろうと思うけれど、「積ん読」という単語とそれに帯びているネガティブな気圧はもう日本列島から消え去ってもいいのでは。いかがでしょう?

2018年04月20日(金) Book, Reading

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』感想

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

もう昔の本だけど、少し前に読み終わってなかなか面白かった。

『騎士団殺し』を読んでおいたので、村上春樹の小説の「癖」は了承の上というか、心の準備が今回はできた、さすがに😓。ストーリーの伏線は回収されないし、セックスシーンの描写も相変わらずやたらと尺を取る…それらを置いといて、自分探し・自我補完の心の旅がありありと繊細に描写され、途中から一気に加速し、本に線を引く暇もなく読み終えた。個人的にかなり納得のいった物語である。

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ふと一人の友人にこの本を勧めたいと思った。そして、16歳と29歳の自分にも送りたいと思った、こいつはできっこないけれど。

その友人は恐らく仕事は問題なく、むしろ順調に進んでいるけれど、心には深い穴が空いていて、一人になった時の時間の流れに異様な重みを感じているのかもしれない。

そして彼も駅が好きで、また(恐らくはかつてないほど強烈に)ある女性に心が惹かれて、でも恋人という領域には達することができず、その気持をどう抑えればいいのか、あるいは勇気を絞った方がいいのか、分岐点で迷っているかもしれない。

彼がこの本を読んだら何かヒントらしきものが得られるかもしれない。そう願いたい。

また過去の自分に対しても–ルックスにコンプレックスを感じ、何一つ自信と勇気を持てない少年に、人を愛せないじゃないかと自己否定していたアラサーに–同様にそっとこの本を差し出したい。


自分は何色だろう、とこれを読んでから気になっていて、縁があって「色が見える」方にこの前出会えて、診断してもらった。そしたら、「グレーに少しの茶色」と言われた。

大福を思い出した。

2018年04月17日(火) Book

日本語を勉強し始めた頃に書いたもの、13年前くらいかな

久しぶりに実家に帰った。そのついでに昔の写真やノートを探してみた。掘れば掘るほど面白いものが出てきた。幼稚園の時に描いて絵とか、集めてた恐竜のプラモデルとか、それらを見ながら爆笑が止まらなかった。

その中で大学時代のノートがあった。おそらく日本語を勉強し始めた頃に書いた、あるいは書かされた簡単な作文だった。今読んでみると当然いろんな問題点が目立つーー文法の間違い、単語の不適切さ、小学生っぽい内容の薄さ、さらに字の汚さ…でもほんの少し自分ぽさもあった。「当時の自分という人間はそう書いたであろう」的な文章、本とか、生死と存在とか…

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なかなか面白かったので、個人的な趣味としてここに載せてみます。

私の大学の自学室(ホームルーム)

note-1

本について

note-2

私はどこに存在するか

note-3

僕はこの三つの文章についてどれ一つ全くもって覚えていない。なんで書いたのか、誰に向けて書いたのか、書いてそれをどうしたのか…記憶の断片

ちなみに、「私の大学の自学室」の隣のページでは「定番な」日本語教科書の内容が書かれていた…

note-4

それふうにエンディングしましょう。

これは誰が書いたものですか?
これはkinopyoが書いたものです。

2018年04月14日(土) Japanese, Writing