kinopyo blog


もの書きの引き出し(からのちょい出し)

カウンターの向こう側に立つ(2)——変わってくる日常の風景

前回:(1)33歳からのカフェバイト

僕が働いているブックカフェは繁華街のとある商業施設の四階にある。名前の通り本屋とカフェが融合した空間で、未購入の本でもカフェでじっくり座って試し読みができる。店内にはWifiとコンセントが整備されていて、コワーキングスペースやミーティングの場所としても利用できる。クラフトビールやレモンサワーなどのアルコールメニューもあり、仕事帰りでサクッと飲むのもなかなか快適。

僕は元々は一人の客としてその空間に陶酔し、果敢に応募したわけです。そしてブックカフェのスタッフとして働き出した。エンジニアの時期と比べると、日常はガラリと変わった。

まずは基礎体力が要る。僕は大体昼の12時から夜10時までシフトを入れていて、途中の1時間〜1時間半の休憩を除けば、基本は立ちっぱなし。それを週5のペースでとりあえず一ヶ月やってみる。

今まではデスクワーカーとして「溺愛」されてきた貧弱な僕にとって、最初は正直キツかった。初日の勤務がちょうどゴールデンウィークのピークに当たり、帰宅後、ソファに安らぎを求めた時に、ぼろっと転ばしたのは「あー、座るのっていいな」という言葉だった。足が痛くて、ベッドで横になってもまだ硬直状態だった。このままじゃ身がもたないんじゃないかと心配もしたけど、意外と人間は適応力が高い生き物ですね。この肉体の苦痛も、3日も経てばすっと慣れてきた。GWの連休も終わり、激務ではなくなったのも大きいけど。

僕らスタッフたちは基本カウンターの内側で作業する。この決して大きくはない空間の中での移動は、実はけっこう多い。スマホのアプリで歩数をカウントしたら、そこだけで一日一万歩を超える日もあったりする。熱々の食洗機からカゴを取り出し、お皿やコップを拭いて元の棚に戻したり、腰を下ろして冷蔵庫から仕込みやドリンクを出したり、閉店後椅子を全部テーブルに乗せて大掃除したりして、運動量が圧倒的に摂取量より多いから、実際三週間で約3kgも落とした。ジムで贅肉を意図的に削る鍛え方より、働きながら自然に痩せていくのは、なにか原始的でオーガニックな味がする。温室栽培より大自然で育ったみかんのほうが美味しく感じるように(単なる錯覚かもしれないけど)。

次に休憩の取り方が大きく違う。デスクワーカーの時代のランチタイムといえば、出動命令が出されたアリが巣から這い上がるように、「集団」で行動するのが常識だった。いわばチームランチ。そこで仕事の話をしたり、プライベートの話をしたりして、なんやかんやでコミュニケーションは取れていた。

ところでこのブックカフェ(あるいは世間ほとんどの飲食店など)では、その会社員時代のランチ常識は通用しない。言うまでもなく、スタッフが一斉に休憩を取ったら誰がお客さんにサービスを提供するんだい、という話になるので、休憩は交代で順次に取っていくようにスケジュールが組まれている。僕は昼の12時スタートなんで、休憩はだいたい4時以降になったりする。ブランチの午後バージョンは、なんと言うでしょう?アフランチ?

このような食事はやや不規則に聞こえるかもしれませんが、僕にとってこれは一つとんでもないメリットがある。うちの店は、スタッフでもその空間を利用できるし、カフェと本屋の従業員割引もある。お店のピークタイムを避けての休憩は、つまり気軽に使えるということだ。

スタッフの仲間にコーヒーとサンドイッチを頼んで、本棚から前から気になっていた本を取り出し、窓際の席でゆっくりひと時が過ごせる。自分たちが提供する食べ物とサービスと空間を、自分が実際の客になって満喫する、なんという贅沢。このようなサイクルがいい発見をもたらすのではないかと思う。ホットドッグの上に乗せる、砕いたミックスナッツは滑りやすいとか、カフェラテのミルクの温度が若干ぬるいとか、そういったささやかに見えて、でも大事なことに気付くようになる。

これだけは絶対ちゃんとやりたいというのがあります。食べ終えて返却台にトレイを返すときに、しっかりと「ごちそうさまでした」と向こう側の仲間に言うこと。自分でやっているからこそ、そのありがたみが倍増する。まあここだけじゃなく、毎日僕たちのために料理を用意しているすべての人に言いたいですね。

つづく

2018年06月28日(木) Cafe, Work, Diary

カウンターの向こう側に立つ(1)——33歳からのカフェバイト

「パクと申します。11時40分にKさんと面接の予定がありますが」

本屋のレジでそう伝えて、僕は担当者が来るのを待っていた。その1分足らずの間、僕は隣りの棚を意味もなく眺め、目のやり場に困っていた。喉は乾いていて、心臓のドキドキの鼓動が一段と大きくなっていた。いつぶりなんだろう、こんなに緊張したのは。生きている感触だ。

後にカフェ側の席に案内され、Kさんがやって来た。挨拶の後、こちらから履歴書を渡した。そこにはこの十年間、ソフトウェアエンジニアとして働いていた会社名が載っている。最後にこのような書類を準備したのは7年前だった。

それを手に取ったKさんは戸惑いの色を浮かべた。
「エンジニア…ですね。うちのブックカフェの仕事を応募するのは…エンジニアの仕事を希望ですか?」
「いいえ、カフェや本屋のスタッフとして働きたいです。アルバイトとして。」
そう答えて僕はカフェのカウンターを指差した。

Kさんの目はさらに見開いていた。「それはつまりレジやドリンク、洗い物などの仕事をやるんですか」と確認した。
「はい、そうです」自分に務まるのか、正直不安もありつつ、揺るぎない決意を示そうとしていた。心の底からこの仕事が懇願している。

なぜ、とまではKさんは口にしなかったけれど、明らかにその答えを求めていることが分かった。何か勘違いしていない?うちでいいの?というような確認の目線だった。確かに滅多にない話ですね。現役エンジニアが、33歳にもなって、なんでわざわざブックカフェでバイトを始めようとするのか。

その答えは今になってもよくわからない。それを論理的にまとめるにはまだ歳月が必要とするかもしれない。一つ断言できるのは、ただ、この仕事をしたい、お客さんの顔が見たい、そんな自分の気持ちに気づいたことだ。

面接は15分も経たないうちに終わってしまった。伝えきれなかったことがたくさんあった。

やらないよりやったほうがいい。最近はこの言葉に励まされ、損得をいちいち考え、優柔不断でいるよりかは、「やったほうがいい」のような確信を持てる物事については、とことんやる。この方がまず身が軽くなるし、いい結果を生み出せる気がする。


翌日。

一刻も早く電話に気づくよう、久しぶりに携帯のマナーモードを解除した。不安が膨らみ始めた頃に電話が掛かってきた。ぷるぷる震えた手で、スピーカを耳元に当てた。

朗報。
採用。

こうやって僕の人生初のバイトが始まったのだ、33歳の春から。

つづく:変わってくる日常の風景

2018年06月03日(日) Cafe, Work, Diary

本:屍人荘の殺人ーゾッとするほど美しく、魅力的なもの

屍人荘の殺人

何回も本屋で見かけ、一回読んでみたらドハマった。魔力があるように。

全体的に、とても「現代」の感じが漂う作品だと思う。時代背景も、スタイルも、キャラクターの言葉遣いも。今まで「本格ミステリ」って言ったらパソコンすら復旧していない、「過去」の設定のイメージが多く、小説自体の面白さに影響はないけど、「今」ではないのが多少は距離感を感じてしまう。本作がその「穴」をほどよく埋めてくれて、なおかつ新しい流行りの要素をモリモリ取り入れたのが、読者としてありがたい。

本の序文では受賞の言葉が載せられ、心に響く:「自分の想像で誰かを楽しませたい。その原点を忘れず、これからも邁進したいと思います。——今村昌弘」
そして、ミステリ固有の多数の登場人物を一瞬にして覚えやすくする巧技も、著者の親切心を感じられる。

これから読む方のために、ネタバレを避け、細かく語れないのがもどかしい。これだけはぜひ体感してほしい、というところをあげるとしたら…

「ホームズ」と「ワトソン」を借りて語る友情。
絵になるくらいの詩歌的アクションシーン。
「ゾッとするほどに美しい」、「二度殺し」の正体。
最後に問題提起した倫理観——人間の一番醜い部分を指差して、人でなしだ、許せないって非難することの妥当さ。そこから目を背けたい心。

「人は〇〇に対してそれぞれのエゴや心象を投影する」。その〇〇と対峙するとき、自分はどう映っているのだろうか、なんとなく、その妄想に耽る。

2018年04月30日(月) Book

西国分寺のクルミドコーヒーに行ってみた、物静かの中で一人スリル

『ゆっくり、いそげ』の本を読んで、一度は行ってみようとずっと思っていた。一体どんなカフェなんだろう、本で書かれた思い入れが実践されている場所なんだろうか、と期待を込めて家から一時間以上かけて西国分寺を訪ねる。

西口から出てほんの少し歩くくらいのところにお店があった。案外近い。本の中での世界をこれから体験するんだから、その興奮を抑えきれずまずは入る前に外観の写真を一枚。一瞬にして東京の住民から観光客に変身。

クルミドコーヒー外観

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中に入るとまず二階に案内され、六人掛けのテーブルに腰を下ろした。メニューをもらってまずこれに惹かれたーー「見た目華やかなれど、とっても食べにくいサンドです!笑」。その笑いは受け止めてあげないと、と思って早速このサンドとクルミドコーヒーを注文。伝票代わりに可愛い小さな木馬が渡された。

クルミドコーヒー伝票代わりの木馬

そしてゆっくりと周囲を見回す。お店は縦長にできていて、一階がレジやスタッフの仕事場で、二階、三階と地下が客用のスペース。僕が今座っている二階はカウンターが二つあって、真ん中に大きなダイニングテーブルが置かれている。深く濃いブラン色の一枚板のテーブルで触り心地がとても良い。

各テーブルには名物のクルミの入った小さなバスケとキノコの形をした品のよいくるみ割りがあって、「一つどうぞ」のメッセージカードが刺さっている。長野県東御市からやって来たそうだ。

クルミドコーヒー 名物のくるみ

全体的に何かがドカンと目立つことはなく、都会のザ・オシャレの店よりとは違ってここは物静かで、落ち着いた感じ。タッチの一つ一つはどこまでも一体感があって、うまく溶け込んでいる。まるで謙遜で優雅なバックグラウンドミュージックのように、人前に立とうとはせず、でも耳を済ませれば、その美しい響が居心地よく染み込んでくる。昼過ぎのこの時間帯は6割くらい埋まっているところか。

二階と一階の間の階段にはクルミド出版の本が置かれている。確かここに通っているお客さんの中に物書きの方々がいて、何かしらの形で支援したいという発想からできた小さな出版社と記憶している。並んでいる何冊の本の表紙も『ゆっくり、いそげ』で見覚えがある。

階段をさらに少し降りて、ドアの近い方の棚には「喫茶の文体」と書いたコーナー
あった。横の説明を読んで見たら、「喫茶店やコーヒーををテーマにした一冊8〜48ページの短編が15タイトルで、小説あり、エッセイあり、レシピ集あり(官能小説まで……)」と書いてあった。どちらも無地でエレガントな白い表紙にタイトルが縦に書かれている。

「よろしかったらお席に持って行ってゆっくりご覧ください」と隣の店員さんが丁寧にフォローした。よし、ここは一つスリルでミステリアスなのを選ぶぞ!と各タイトルを目でなぞりながら、一冊に視線を固めたーー『残り香の秘め事』。

それを席に持って帰ったら、ちょうど食事とコーヒーが運ばれ、僕は一旦その「秘め事」を横にずらし、腹ごしらえに取り掛かる。見た目華やかで彩りなサンドだけど、確かに預言通り食べにくい!でも美味しい!僕の食レポのボキャブラリーは片手で数えられるくらい残念で仕方ないけれど、これはなんか、甘えたいような、そんな美味しさだった。食事を終えコーヒーを口にするとスイッチがピタッと入って、『残り香の秘め事』のページをゆっくり開いてみた。「こ、これは…」

クルミドコーヒー 小説

ある意味スリルだった。まさか15冊の小説とエッセイとレシピ集がある中、僕は一発で官能小説を取ってしまった。これはどうしよう。先程店員さんがサンドとコーヒーを運んできた時は既に気づいていたのか?今更戻しても手遅れじゃないか、あいつびびってんなと笑われるんじゃないか?それともここはもう男の道を通すしかない?静かで穏やかな時間と空気の流れを僕一人がなぜか逆走している。

結局のところ、16ページだけだしと思い、すらすらとそのまったくもって綺麗な文体で書かれた、クリエイティヴな比喩に溢れる二つの胴体の絡み具合を僕は拝読させてもらった。本棚に戻した時、額の汗を手の裏で拭いたら、それが窓から差し込む太陽に反射してキラキラと光っていた。初めて日本語で官能小説を読んだ、しかも公共な場で。ワイルドだろう。


二杯目のコーヒーの隙間に地下のお手洗いに行った、そしてそこの「ひと棚だけの古本屋」に目を奪われた。これも店主の思いが込めた試みだなと感心しながら、上から二段目に置かれた村上春樹の『レキシントンの幽霊』を手に取った。開くと中には綺麗な字で書かれたコメントのブックマークが挟まれていた。こういったちょっとしたタッチがこの店の隅々に刻み込まれている。そしてこういったブックマークに関しては、僕を無抵抗化させるほどの力を持っている。見えないどこかの誰かが数百円の利益のために転売するのではなく、しっかりと生きている一人の人間からこの本とこの本に込めた思いを一緒にいただくように思わせるからだ。

クルミドコーヒー古本屋

「僕も村上の本が好きです」と爽やかな男性の店員さんに声かけられた。「この本棚にある本は僕の蔵書です、よろしかったら席でもごゆっくりしてください。」
ブックマークのコメントがあって助かりますと礼を言って、僕は席に戻ってしばらく夢中で読んでいった。


やがて日も暮れて、そろそろと思い、あの可愛い木馬を持って一階のレジに行った。それを『レキシントンの幽霊』の本と一緒に渡し、会計を済ませた。
「ご来店ありがとうございます。韓国の方ですか?」と先程の蔵書の店員さんが玄関まで案内してそう聞いた。

(惜しい!まあ半分正解とも言えるけど)

「中国です。『ゆっくり、いそげ』の本を読んでここに来ました。機会がありましたらまた来ます。」と僕は言った。店員さんが大きくお辞儀をして、僕もそうしてお店を出た。

(あれ、自分のその言い方だと、本を読んでわざわざ中国から来たようにも解釈できるけれど…🤭 もう手遅れ、まあいいか…)

2018年04月23日(月) Trip, Cafe

積ん読の存在意義

Photo by Jessica Ruscello on Unsplash

今日は本屋でゆっくりしながら二冊の本を買った。一冊は小説で、「犬。そこにいるのにいぬ」のダジャレがツボって、もう一冊は「記憶」をテーマにしたエッセイで面白かった。戻って本棚の一番上に置いといたら、「あー😩また積ん読が増えた」と内心で呟いた自分に気づいた。

元々読書は楽しい体験のはずなのに、この拭ききれない罪悪感はどこから生まれたのか?そしてふとこう思った。積ん読は「失敗した買い物、お金の無駄遣い」ではなく、「自分のための図書館を作っている」と、こうやってシナリオを書き換えればずいぶんと気が楽になった。我ながらなかなか良い思考転換だと思う。

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そもそもなんで積ん読という現象があるのか?「時間がない」というのが普通に考えられる理由(言い訳)かもしれない。でも本当にそうなのか?固定な時間の総量の中から、「その本に時間を割り当てていない」と僕は考えている。決してそれを非難しているわけではない。本は「ある特定の空気の流れ」を要するものだと思う。何もファーストフードのように数分で飲み込めるものではない(まあ速読術はあるようだけれど、あれはどうしても抵抗がある)。腰を据えてじっくりと一冊の本と向き合うには、その時の心境とか、ムードとか、心の余裕とか、人生のフェーズとか、ひょっとしたら日差しや体内の糖分と塩分の割合にも左右されるかもしれない。それらが噛み合わないときは、一度「購入」という行為まで至ったとしても、「読む気に今はならない」場合がある。

もしかしたら大多数の方は今日までの僕と同じように考えているのではないだろうか?積ん読はよくないと、贅肉のように減らしたいと。「積ん読」という単語が登場したこと自体、その風潮の表しではないか。でも積ん読という現象は多分存在して当然で、むしろ存在して構わない、わざわざ正当化する必要もないのではないかと、この記事を書きながら悟った自分がこうやって問題提起を試みる。

まず読書は極めて個人的である。個人的な行動にはその人の癖がついてくる。真夏に火鍋、真冬にアイスクリーム、早朝にカレー、深夜にコーヒー。理屈で突っ込むのは愛想がない。その癖が多少ズレたとしても、その人が満足すればそれでいい。少しマイペースで、わがままで、いわゆる「最善・最適の方法」に背けた癖が人間を人間たらしめる。

また、本を購入した瞬間を思い出してみよう。知識の実用性、物語の壮絶さ、装丁のデザイン、流行り物への関心、何かしらに惹かれたのではないか。その高揚した気分が何かに遮断され、読むという行為に至らなかったのは望ましくないことかもしれない。でも逆を言えばそれはその感情を一旦後回しにした、時間の運河に預けたとも考えられる。いつか読書の再開は過去の自分との再会にもなるので、その本に期待していたことを思い出しながら現状と比べるのも面白い体験かもしれない。なので、僕は本を買ったらまず最初のページに日付と場所、そして本屋の名前、もし誰かに勧められたのであればその人の名前も一緒に書いている。後でもう一回ページをくくる時に、「たしかにあの時はあの事情があって、あそこの本屋で買ったんだな」と少し嬉しい気分になる。

最後はぜひ「視野に入る力」を体験してほしい。本棚やデスクなど、目に入るところに置くことでそのリマインド効果は抜群。何かしらの実用性に迫られた時や、何かしらの「答え」を求める時、まだ読んではいないけれど、どの本を読めばなんとなくヒントがもらえそう、そういうふわっとした感覚が強力な盾となる。「常に視野に入る」のと「クラウドにあるから検索すれば出てくる」の両者では、言葉通り天と地の距離がある。まさに身近な図書館。これも僕が紙の本をあえて選んだ理由の一つである。

繰り返しになるが、「自分のための図書館を作っている」と考えて、堂々としよう。積ん読という行為は消えないだろうと思うけれど、「積ん読」という単語とそれに帯びているネガティブな気圧はもう日本列島から消え去ってもいいのでは。いかがでしょう?

2018年04月20日(金) Book, Reading

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』感想

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

もう昔の本だけど、少し前に読み終わってなかなか面白かった。

『騎士団殺し』を読んでおいたので、村上春樹の小説の「癖」は了承の上というか、心の準備が今回はできた、さすがに😓。ストーリーの伏線は回収されないし、セックスシーンの描写も相変わらずやたらと尺を取る…それらを置いといて、自分探し・自我補完の心の旅がありありと繊細に描写され、途中から一気に加速し、本に線を引く暇もなく読み終えた。個人的にかなり納得のいった物語である。

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ふと一人の友人にこの本を勧めたいと思った。そして、16歳と29歳の自分にも送りたいと思った、こいつはできっこないけれど。

その友人は恐らく仕事は問題なく、むしろ順調に進んでいるけれど、心には深い穴が空いていて、一人になった時の時間の流れに異様な重みを感じているのかもしれない。

そして彼も駅が好きで、また(恐らくはかつてないほど強烈に)ある女性に心が惹かれて、でも恋人という領域には達することができず、その気持をどう抑えればいいのか、あるいは勇気を絞った方がいいのか、分岐点で迷っているかもしれない。

彼がこの本を読んだら何かヒントらしきものが得られるかもしれない。そう願いたい。

また過去の自分に対しても–ルックスにコンプレックスを感じ、何一つ自信と勇気を持てない少年に、人を愛せないじゃないかと自己否定していたアラサーに–同様にそっとこの本を差し出したい。


自分は何色だろう、とこれを読んでから気になっていて、縁があって「色が見える」方にこの前出会えて、診断してもらった。そしたら、「グレーに少しの茶色」と言われた。

大福を思い出した。

2018年04月17日(火) Book

日本語を勉強し始めた頃に書いたもの、13年前くらいかな

久しぶりに実家に帰った。そのついでに昔の写真やノートを探してみた。掘れば掘るほど面白いものが出てきた。幼稚園の時に描いて絵とか、集めてた恐竜のプラモデルとか、それらを見ながら爆笑が止まらなかった。

その中で大学時代のノートがあった。おそらく日本語を勉強し始めた頃に書いた、あるいは書かされた簡単な作文だった。今読んでみると当然いろんな問題点が目立つーー文法の間違い、単語の不適切さ、小学生っぽい内容の薄さ、さらに字の汚さ…でもほんの少し自分ぽさもあった。「当時の自分という人間はそう書いたであろう」的な文章、本とか、生死と存在とか…

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なかなか面白かったので、個人的な趣味としてここに載せてみます。

私の大学の自学室(ホームルーム)

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本について

note-2

私はどこに存在するか

note-3

僕はこの三つの文章についてどれ一つ全くもって覚えていない。なんで書いたのか、誰に向けて書いたのか、書いてそれをどうしたのか…記憶の断片

ちなみに、「私の大学の自学室」の隣のページでは「定番な」日本語教科書の内容が書かれていた…

note-4

それふうにエンディングしましょう。

これは誰が書いたものですか?
これはkinopyoが書いたものです。

2018年04月14日(土) Writing, Japanese

まあまあいい山から降りて、自分の山を探す

staring-at-moutain

1月にあった話。年明けで友人に会いに行った。

約束の時間よりも15分早く着いたから、時間つぶしに困ったとき、ちょうど電話通信があった。見覚えがある。確か8年前に転職活動してた時に登録した人材紹介エージェントだった。

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それからも年に数回、募集案件をメールで紹介し続けてきた。担当者が8年間の間で何人も変わっていても、そのメールは途絶えることがなかった。最初のうちは丁寧に「転職は当面考えていない」と返信したが、最近はもうほとんど未開封のままにしておいた。

でもいきなりの電話は何なんだろう、初めてのパターンだ。
と思いながら、普段なら留守電にしたはずだが、今はちょうど時間も余っているし、電話に出てみようと思った。

「もしもし?」
「あ、ニハウ、シーピアオシェンスンマ?」と女性の声が聞こえてきた、綺麗な中国語だ。
(「もしもし。こんにちは、朴さんですか?」)

「はい、そうです」
「私、〇〇エージェントの〇〇と申します。今ご都合はどうかな?少々お時間いただけますか?」

とこう訳しているけれど、中国語はビジネスのシーンでも日本語ほど相手との距離が遠くなく、特に電話でのこの方はカジュアル、フレンドリー、かつ失礼のないバランスがよく取れた言葉遣いが印象的だった。

母国語を聞くのがだいぶ珍しくなった今、特に女性の声というのは妙に親切感があった。恥ずかしいけど、うちの母以外に中国語を喋る女性はほとんど周りにいないから、いきなり懐かしい気持ちが湧いてきた。

(以下、電話の内容は日本語に翻訳している)

「はい、少しなら、何のことでしょう?」
「よかった、ありがとうございます。今〇〇の大手企業からの求人情報がありますが、興味ありますか?どちらも先端分野で、話題のAIやクラウドなど扱っており、報酬も手厚く、朴さんのスキルとの相性もいいと思いますよ」
「それはどうも。でも今は特にそういうの考えてないのでなんとも」
「そうですか?もし差し支えなければ、今の職場や業務内容等教えていただけますか?今すぐではなくても、これらの情報をもとに、またいい条件があったらお力になれと思いますので」
うー、内容をわかった今、本当はここで電話を切りたいところだが、綺麗な母国語に変に吸い込まれたのか、もうこのままちょっと会話を続いた。

今の仕事をざっくりまとめて伝えると、電話越しでキーボードがぱちぱちと打たれた音が聞こえてきた。確かにそっちが持っている情報はもうだいふ古くなっているはずだ、これの機にデータを更新する気だろうな。

「え、では10年以上の勤務経験とRailsでの開発が7年で、今もエンジニアをやっていると。ふむふむ。ちなみに今の年収はどれくらいですか?」と更に打診してきた。うまいな・・
嘘をつくのも、逃げるのもあれだし、正直の数字を伝えた。
「おー、はいはい、なるほどなるほど」
そして、その数字がパソコンに入力された音がした。

ここでふと思って、今度は僕から質問を投げた。
「それって、どんな感じですか?」
「どれどれ、ちょっと待ってね。今年34歳で、10年の経験と・・(パチパチ)・・うん!まあまあいいんじゃないっすか?」
その「まあまあいい」というのを一体どう解釈すればいいのか。質問をした自分がアホだった。まるで自分がコンビニに並んでいる正規化された商品のように、「横34、縦10、奥○」という座標の棚から取り出され、バーコードをピッてスキャナーして、「まあまあいい」という値段が出た、そのような感触を受けた。

僕という人間は、そこのデータベースでは極めてシンプルに34と10で表現できる存在なのか。僕だけじゃなく、そこのデータベースに、いや、全ての人材紹介データベースに、一人ひとりはデータ化され、その「座標」だけで瞬時にその人へのある種の評価が出せる。「まあまあいい」とか、「ちょっと残念」とか、「ずば抜け」とか、「これはひどっ」とか。

僕らは年齢と年数と年収以外でも、数字で測れないたくさんのものを持っていたり、背負っていたりするのに、こうやって電話越しで、会ったこともない人間にある種の評価が下せるとは、なんだか腑に落ちない。大げさなのは知っているけど、それでも。

「次もし転職するんだったら、希望年収はどれくらいですか?」と続いて、次の質問が飛んできた。
「あーそういうのは一旦いいや、今は数字に麻痺している時期なんだ」と僕は素直に言った。
「え?麻痺?数字?」さすがに予想外の答えで向こうも動揺を隠せなかった。
「大丈夫ですよ、今のベースがあればこれからどんどん伸びますから!」と気を取り直して、元気にまとめてくれた。
「あ、でもね、転職なら40前のほうがいいですよ!」と最後にアドバイスをくれた。
「へー、そうなんだ、そういうのがあるんだ」
「そうだよ、そこからは厳しくなるからね、今のうち考えといたほうがいいよ」
と挨拶をして、この辺で電話は終了。母国語という懐かしい風景に魅せられ話をどんどん聞いてたら、一人で勝手にとんでもない闇に落ちていった。

決してこのエージェントさんの観念や彼女の職業そのものを責めるつもりではない。彼女らのおかげで僕も次々と違うことにチャレンジしてきたし、実際会ったらしっかりと相手と向き合って、全面的に評価する姿勢と手段ももちろんあると信じている。

ただ哀愁的に感じるのは、このわかりやすい「座標」ーー年齢、年数、年収ーーがまるで社会においての自分の「立ち位置」のように、それをもとに互いの「幸せ度」が比べられたり、その結果によって一喜一憂なになったりするのがおかしいと思う。何か大事なことがずれているような気がする。

会社には会社を評価する「座標」があり、学生にも学生の「座標」がある。そして美味しさの座標、買得な座標。株が落ちたからこの会社はもうだめだと、成績がトップだからこの子は大丈夫だと、食べログで4点以上だからこの店は絶対美味しいと、今だけ実質0円、これは買わないと損すると。

こんな「シンプル」に見える座標の上で、僕たちはいかにも難しく生きているのはないかな?そのわかりやすい「普遍的な」価値観念に囚われ、大事なことを見失ってはないのかな?

人生は勝負ではない。それぞれの山はそれぞれの心の中にある。自分のペースで行けばいい。一人でこうは思っていても、「座標」のシステムはいかにも浸透しているから、勝手にレースに出させられたりする。

『響 〜小説家になる方法〜』の漫画で一番印象に残る価値観の衝突は、直木賞と芥川賞をダブル受賞した天才少女は、その後もいつものペースで生活したいのに、世間はその正体を暴こうと大騒ぎするくだり。その反面、「芥川やらとらなきゃ作家じゃないみたいな風潮なんなんだよ、だったら全員に配ってくれ」と人生のすべてを賭けていても、賞を取れなかった人たち、行かざる座標に行けなかった者たちの心境を通して、好きなことをやって生きていくというのがいかに辛くて厳しいかを表現した。

何も真剣に考えずにこの世界のレールに乗ったまま、「まあまあいい」というところまで来た今、僕は改めてこの構図を理解し、自分の生きていく方程式を構築しようとしている。

2018年04月07日(土) Value

僕たちがやりました、その叫びの裏には

僕たちがやりました

ある日、偶然にiBooksで第1巻を試しに読んでみたら止まらなくなって、勢いで9巻まで一気に全部読んちゃった、そんな魔力のある作品である。読み終わってからだいぶ時間が経った今でも、まだ妙に心がディスターブされ続けている。ちょっと暗いテーマにはいつも惹かれるが、本作には上位に乱されている。素晴らしい。

続きを読む…

最初の数ページで、どうしよもない主人公たちのどうしようもない日常を見て、この作品は一体何を伝えたいのだろうと思いきや、まさかのいたずらが大事件になって、そこからプロットが「爆発的に」邁進する。

犯罪を犯してしまった。人を殺してしまった。その後どうする?よくあるパターンは自己正当化なり、現実逃避なりして、最終的に耐えきれず自首するか、あるいはそこを「乗り越えて」サイコパスになるか、という流れが考えられる。『罪と罰』、この名作も極めてシンプルに要約すると上の範疇に入る。

しかし『僕たちがやりました』ではプロットがよっぽど複雑でよっぽど面白い(中毒性がある)。主に二つの点で差別化できている。

・単独犯ではなく、4人の集団
・訳あって自首する術がない

三人の中学生と一人のニートで金持ちのOB(通称パイセン)、彼らが不本意で犯罪を犯した後の心理の変化はもちろん、その波動で集団の関係にも大きな壁ができてしまう。かつては一緒にバカけた友人が、明日には用心深く警戒しないといけない闇の使徒になる。無言無声で滑稽な笑顔さえ伴う戦争ごっこ。

この絶妙な多角の博戯関係が作品のバックボーンであり、各人が葛藤の末、どんな道を選んだのかも吟味するところである。

そして何よりも別格なのは「自首できない局面」を作り上げたこと。このひねりを通して表現した矛盾が本作の醍醐味だと思う。「僕たちがやりました」、題名通りのその叫びはどこまでもなく辛くて、かつどうしよもない。なぜこうなったのかは是非ご自分で読んでください。

法律は人を裁くのではなく、人を救うために存在するのだ。

どこで聞いたのかは忘れたが、最後まで読んでなぜかこの言葉が浮かんだ。罪を償えないままそれと生きていくのがどんだけ辛いのか。幸せになっているはずなのに、幸せと感じている最中なのになぜかへとが出る。人間はそんなダークなものを背負って生きていけるような生き物ではないじゃないかな。


他の登場人物も見事に仕上げた。心の強い蓮子と彼女の叶わない恋、内話を明かした市橋のまさかの最後、真実にたどり着いた刑事が四人にかけた呪い、などなど。

最初は過激な描写や画風に戸惑ったのだが、やがて腑に落ちた。メイクセンス。人間の見苦しさ、無様な姿をとことん表現するにはぴったりだ。

一つだけ印象に残るセリフをあげるとしたら…主人公がドン底に落ちて、生きる意味も分からず、ゴミ箱の中の残飯を口に運びながら吐いたこの言葉でしょうか:

お願いします神さま…どうか今日が、人生最悪の日でありますように


ちなみにNetflixに実写版のドラマがあって、テーマソングが最近流行っていたShape of Youとなっている。おかげでこの曲を聴く度に胸がいっぱいになる。感情輸入しすぎたか。

2018年04月02日(月) manga

豚ですね

金曜日のチームランチ、総勢11人でブラジル料理を食べに行った。

会計時、俺が先頭を切って伝票をカウンターに置く。
店員さんが回ってきて「ご一緒でよろしいですか?」と俺に尋ねる。
その気持は分かるが、残念ながらここは会社の経費を使う場合ではない。

「別々でお願いします」
「あ、えー、少々お待ち下さい」と言い、テキパキとパネルをタッチする店員のおっさん。
「えー、そしたらお客さんはー?」
「豚肩ロースのステーキです」
「えっと・・・」また一連のタッチ操作。

やっと受取の体制が整ったのか、急に頭を上げ、しっかりこっちの目を見ながら響く声で「豚ですね?!」と再確認する。
「・・・」
黙ってお金だけを差し出す俺氏。

そしたら後ろに並んでいたTさんも同じく豚肩ロースのステーキを注文したらしく、それをおっさんに伝えたら案の定、「豚ですね?!」と来て、ぽっちゃりで人好のTさんは無防備の状態で元気よく「はい!」と答えた。

「豚肩ロースのステーキを注文した人間です!」と突っ込めばよかったと後悔。
客の顔面に向かって「豚ですね」と連発するのはちょっとな・・・

進撃の巨人 エレン 質問の意味がわかりません

進撃の巨人 エレン 人間です!

2018年03月02日(金)