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もの書きの引き出し(からのちょい出し)

君たちはどう生きるか

色褪せない人生の一冊

湧き出そうとする涙を必死に堪えて、雪の積もった道をひとりの少年が狼狽えていた。彼は自分のなしたこと、いや、なさなかったことに悔やんでいた。友達を裏切った罪悪感、取り残された孤独感が押しかけ、連日、布団から出られなくなった。死んだほうがマシだ、とさえ思った。

そんな時、彼のそばにやってきたのは、彼の叔父さんだった。そして一冊のノートを残してあげた。そこにはこんな言い伝えがあった。

「いま君は大きな苦しみを感じている。なぜそれほど苦しまなければならないのか。それはね、コペル君、君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。

それに心を打たれたのはその少年と、その本を手にとって読んでいた私であった。

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漫画 君たちはどう生きるか


最近どこの本屋に行っても、漫画版の「君たちはどう生きるか」が展示され、その景色に圧倒されていた。流行りものへの好奇心で、冒頭の数ページを読んでみたら見事に魅せられ、虜になってしまった。この一冊は今の自分に、将来の自分に、そして次世代に残すべきだと強く感じた。

「君たちはどう生きるか」、一見タイトルからは難しいことを問われ、この体のことは苦手だと、遠ざけてしまう方々もいるかもしれない。そんな心配はまったくないと証言しよう。何しろ、元々は戦時の少年向けの本なので、その誰しもが困惑で動乱な時代背景で、「人間として立派な人生をどうやって生きるか」ということを極めてシンプル、かつ深みと温かみのこもって書かれた名作である。

そして、15歳の少年のコペル君の日常に焦点を当てる、その切り口も絶妙だと思う。学校は社会の縮図であるように、我々社会人はただ違う制服と肩書きを被るだけで、そこに感じさせる喜怒哀楽は同価同質のものである。さらに、漫画という媒体で繊細かつ無造作にその物語を再現して、より容易く大衆に浸透できるんじゃないかな。(そして私みたいに漫画読んでからそのまま原作の本を買う流れもありだし)

さて、一つだけ、自分の収穫を紹介するとしたら、それは感謝の気持ちである。
決して当たり前のように思ってはいなかったが、ごく普通に学校に行くことができ、教育を受けて人生の基盤を築いたことを実させた親に——
朝晩食事の支度をしてくれて、帰る場所と帰る意味をくれて、こうやってじっっくりと本を読んだり、ものを書いたりすることができる、暖かい家庭を支えている妻に——
順調とは言えない職場だが、衣食住に困らず、生き残るために自分の信念と意思を妥協することもなく、自分のままでいられ、その生活のインフラを提供してくれている会社に——

ありがとう。

いくらでも恩にきる人々の顔が頭をよぎるのだが、本の紹介の話から逸れるので、ここでは割愛する。

一年の終わる頃にこの本に出会えて本当によかった。読み終わって全身から何かが湧き出そうとしていた、それは勇気・感動・共鳴の極みだろう。名作に震撼されるってこういう感じなんだろうな。きっと今後もお世話になり、その度に新しい学びと悟りがあるだろう。

決して軽々マーケティングのためにこの言葉を使わないが、私はこの本を絶賛する。

2017年12月02日(土) Book

それでも紙の本を選ぶわけ

数年前電子書籍の流行りに乗ってKindleを買った。感動のハニームーンも幕を閉じ、結局今は紙の本に戻った。その「両端」を行き渡った経験から、読書の原点に戻った理由を探ってみたい。

まずは電子書籍のメリットを評価してあげたい。

携帯性:物理的にスペースが取らない;どこでもいつでも、どのデバイスでも本が読める
検索性:キーワードだけ思い出せば簡単にその箇所を特定できる
メモ:気になったところを簡単にハイライトでき、またそれをウェブで読み返したり、例えばEvernoteにエクスポートもできる
辞書:わからない単語はその場で意味を調べ、それがフラッシュカードに登録され、後に復習できて、洋書を読む時超助かる
配布:本屋で取り扱ってない洋書でもデジタルなら容易に入手できる

ここ数年Kindleは常に進化していて、この先も期待できるのではないかと思う。

一長一短、電子書籍の強みはすなわち紙の本の短所。それでも紙の本を選ぶわけというのは、以下の点を評価しているからである。

ランダムの共有性と情報の伝達性

子供の頃、家の本棚には常に本がいっぱいあった。歴史、古典、パソコンなどどちらも父の趣味の本で、私は漢字が読めるようになってから勝手に本を取って読むようになった。その一冊一冊の本の影響の積み重ねがあるからこそ、今の自分がいると思う。

という筋書きで、自分の将来の子供にもそれを経験して欲しい。だから紙の本を買うのは一つの長い投資とも言える。家の本棚が暗黙的に次世代に影響と刺激と何かしらのきっかけを与えれば、十分のリターンではないかな?(一人の友人は、「子供に読んでほしい本」を判断基準にして本棚を整理していると聞いている。)

視野に置いてあるだけでランダムの共有性と伝達性があるのが紙の本の強みではないだろうか。もしiPadを子供に渡したらどうだろうか?ワンタップで素晴らしいゲームの世界に行けるから、そこでわざわざ電子書籍リーダーを開いて、本を探すエライ子供はいるのだろうか?

Eighty percent of success is showing up. (成功の80%を決めるものは、顔を出すこと。)

この名言のように自分にとっても子供にとっても、本が常に目に入るところにあることは大きな意味があると私は信じる。

二度読みと空間記憶

これは誰かも経験したことがあると思う——なんとなくこの本のここらへんのページの、左下にこういう内容が書いてあった、みたいな記憶。

紙の本だからその内容も、行間も、誤字も、全て変わらない。改行やスペースやマージンなりで人間はその「空間」・「視覚構造」自体を覚えられると、どこかで読んだことがある。本当に不思議だけど、何かを探したいときには大体感覚でそのページにたどり着ける。

その反面、電子書籍はページのレイアウトが可変であり、前回読んだ時と後で開いた時に必ず同じレイアウトになるとは限らない(同じ端末でフォントサイズを変えなくても)。「記憶の改竄」と言ったら大げさだけと、行間に凝縮された思い出は居場所を無断に変えられたような、後味悪い気がして仕方がない…(この意味で電子版の漫画はアリだと思う、紙のレイアウトと一致して不変だから)

本によるコミュニケーション

本を借り貸しすることで自然に会話が生まれる。読了して本を返すことはつまりもう一回合って、お互い感想を述べ会うことを意味する。内向な私にとっては大事なコミュニケーションのきっかけである。そしてある種「同じ体験」をした同士として、妙に親近感が生まれる(私が一方的にそう思うだけかもしれないが)。

ハンディカップからの逆襲

スペースとるから一本一本を丁寧に評価して買う。
積ん読のほとんどは電子版の本である。何せよ買って忘れる事案が多々発生してしまっていた。

所有感(個人差あり)

やはり物質的なモノを所持することにより、何かしらの達成感が芽生える。先祖から引き継いだこの感触はまだ電子の発展に追いついてないということなんだろう。簡単に言えば自己満足なだけかもしれない。


これらは完全に電子書籍を破棄せよと主張しているのではなく、あくまで1つの体験談として受け取っていただければと思う。本当にいい本は一度きりの体験ではなく、何度も繰り返し読みたいから自分の性と目的に合う媒体を選べばいいかなと思う。

2017年10月29日(日) Opinion, Book

言葉を捨てた時、『黙視論』読書感

『僕だけがいない街 Another Record』を読んだ時のしびれがまだ新鮮に体内に残っている。あの犯罪者の主観世界の描写が変に受け入れやすく、一瞬自分も犯罪体質があるのではと疑うまでだった。それから作者の一肇をフォローし、この度新作『黙視論』を読み終えたところである。

黙視論

なかなか面白いが、作者曰く、「正直、この小説はある特殊な気概をもつ奇特な方々以外には、あまりおすすめできません。」、とのことで、全員に超おすすめという感じでもない(けして自分だけが特別だと独占したいわけではない)。

ここではあえて本編には触れず、主人公の未尽という女子高生が「言葉を捨てた」行動自体について妄想を走らせたい。

少しコンテキストを足すと(ネタバレになるのかが不安)、「言葉を捨てた」本質的な理由は失うことが怖くて、その気持ちを自分にさえ悟られないように、と本の中で書いてある。

気持ちを自分にさえ悟られないように。その文脈からは、とある気持ちがすでに体内に潜伏し、当て字を選ぶように、その物体に当て嵌まる言葉を自分で悟ることだと考えられる。

さらにその過程を追伸すれば、人間は感情が先立ち、それに相応しいいくつかの言葉が後を追い、その中でもっとも適切なのを(ほぼ無意識的に)選別することで、気持ちのある種の収束ができるということになる。また、その言葉が持っている意味から「未来性」さえ暗示し、それも根強く、そこからの方向転換やその気持ちを断ち切ることが極めて困難になる。

「あの人のことが好きかも」と不意に内心で呟いた瞬間からは、今までのわけのわからない感情がまとまり、そして「好き」というコモンセンスから「ずっと一緒にいたい」という憧景が付属してくる。その未来が約束されないから怖い。ひょっとするとその悟りは「失い始める瞬間」をも意味する。人を好きになれた幸せ、それを得た同時にそこに終止符を打たれたような物語になるかもしれない。

…ならば、言葉が追いつこうとした時に言葉自体を捨てたらどうなる?その感情は着地点を失い、鎮圧され、痛みを感じる前に強制終了されるのか?それともただ悟られないまま温存され、辛抱強く沈黙の中で、いずれくる冬眠明けを待つだけなのか?

これがこの本を読んで一番楽しく吟味させられたことである。

2017年10月08日(日) Book

惹かれた電車の広告3つ

電車の中の数多な広告の中で、宝物探しのように自分にささるものを意識的に集め始めている。収穫数はなかなか伸びないが、厳選した3つをひとまず紹介したいと思う。

「条件は今よりいい会社。以上。」

DODAのこの転職広告を初めて見たときは素直にグッドジョブだと思った。数ある転職会社の広告の中で、ずば抜けてユーザー目線ではないだろうか。

キャリアアップもいいけど、
給料とか、プライベートとか、
大切だから。
条件は今よりいい会社。
以上。

結局のところ、これが一番シンプルで、みんなが結果として求めていることとじゃないかな?

今後のキャリアパス、情熱でやり遂げたいこと、そんな真面目で勤勉な人はいるにはいるが、ほとんどの人(特に就職したばかりの20代前半)はまだ自分のことをよく理解していないかもしれないし、難しいことを提示してもうまく回答できないかもしれない。

その中でせめてもの、譲りたくないものをこの広告は掴み、うまくキャッチフレーズにできたと思う。なかなか良い。

「いい成績ほど、母には内緒にしてた」

いい成績とったら真っ先に親に教えて、ご褒美をもらおうとしていた学生時代の私である。この通常の思考ルートと逆行する「ギャップ」がすごい。続きが気になって仕方がない。次の展開が知りたくなる。

ちなみに全文は以下となる

いい成績ほど、母には内緒にしてた

テストで満点なんかとったら、
母はきっと喜ぶだろう。

だけど、
それが母を苦しめることを、
私は知っている。

でもね、
交通事故で父を亡くして
進学をあきらめようとしてたのは、
私の方だった。

~交通遺児育英会の中吊り広告より~

『ワンランク上の〇〇』

当初(数年前かな)初めてこの言葉に出会ったときは、賢い!と衝撃を受けた。ただその高い汎用性と移植性によって、もはや街中に濫用されているクリシェとなってしまっているが… 本当に残念。

ワンランク上の旅
ワンランク上のホテル
ワンランク上の〇〇

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ワンランク上のサービスを享受するには、当然さらにお金を要するもので、それが商売の狙いでもある。極めてシンプル理屈なのに、万人に共通するある「属性」を賢く、巧妙に包んでいる。それは「ランク」の言葉自体にひもづく「階級感」だと私は思う。

「社会的階級」を登る辛さ、必要とされる才能と運気、これらを全て置き去り、「ワンランク上」のサービスを平等に味わうことができる、そう思わせてしまう。あたかもそのランクに自分は君臨したように、潜在意識への報酬と心理的満足度を最大限に強調し、要する代価(さらなる金銭)を最小限——無に等しい——に抑えた効果があると感じた。


車内広告のみならず、あらゆる商用ポスター広告による視覚への暴力は避けようがないが、その分、クリエーティブなものに出会った時の反動も大きい。それらは読み手に清新な風を吹き込んでくれるから、しばし宝探し続けそう。

2017年09月17日(日)

本:『騎士団長殺し』、ブラックコーヒーではなかった

村上春樹のノンフィクションは読んだことがあって、その独特の文体に日本語の感度が刷新された(惹かれたとも言えるだろう)。『騎士団長殺し』は初めて読んだ彼の小説で、感想といえば、ブラックコーヒーを頼んだのに中途半端にミルクが混ざっていて、どちらとも言えない味。豆はトップクラスなのに、若干残念な気持ち。

具体的に分析するには、とりあえず文章力とストーリーの構成の二つの側面に分けないといけない気がする。

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文章力は言うまでもない。自分好みの絶品の「豆」の味。前に読んだ『職業としての小説家』と一貫した筆風、コンテキストがフィクションに切り替え、人間の心理とか細かい物事の関連付けや比喩などは大変楽しめた。

ただ問題はストーリーにある(あくまで個人的な感想として)。「こんなの期待してない・・!」というのが本音。「こんなの」というのはつまりその「霊的な」イデアのこと——いつでも自由に現れ、主人公にしか姿を見せず、その姿かたちも自由自在に変換でき、あえてタイトルの騎士団長の容姿を借用していて、論理的に説明のつかない(詳しく説明したくもない著者の意図も含めて)その存在が、予想外だった。

サイエンスフィクションを読むつもりでこの本を選んだわけではないし、むしろちゃんとしたサイエンスフィクションなら何かしらその背景や世界観と成り行きを読者にきちんと教えるはずだけどね。単純に「村上春樹の小説の世界」を「初見」したものとして驚いた、この「不親切さ」に。

私自身、何の霊体験もなく、ごつ普通に生きてきたので、本の中に現れるこのわけのわからない「霊的なもの」(失礼)により、物語が変わり、実世界に影響を与えたようでなかったような、どう解釈すればいいかを悩んでいた。果たして主人公のその「神秘な国」への旅、あの地底の暗い横穴をくくり抜いたことにどんな意味があったのか、それが何で普通の人間世界の一室に閉じ込められた少女を救ったのか、関連付けがなかなかできなかった。そして著者にはそれを説明しようという姿勢もなく、理屈と論理的な「輪」を閉じることができなかった。もしかしたらこれは二週、三週してやっと線が繋がる設定かもしれないが、この長編をもう一回読もうとは思わない(少なくとも今は)。

絵に喩えるのなら、その技術で肖像画でも風景でも写実的に描けば素晴らしい絵になるのに、理解に難しい抽象画ができあがったイメージだ。それ好みのグループには受けられるかもしれないが、大衆向けとは言い難い。

もしかしたら、『職業としての小説家』で書かれたように、「小説が書けるかもしれない」と悟った時の著者の体験をこの小説で再現したかったのかもしれない。

それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした…平たく言えば、「ある日とつぜん何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。(42ページ)


少し間を開いてからはこう考えるようになった。あれをある種「自分の体験したこと」にすれば何となく一つの決着にたどり着けそうな気がしてきた。

この第一人称で書かれた「私」を自分のことに入れ替わり、「私が妻と別れて、山奥に一人で数ヶ月住んでいて、私に向けて鳴らされている鈴の音を拾い、謎めいた穴を開いて、騎士団長のイデアを解放し、やがてはやらないといけないことをこなし、(一見どこでどうつながっているかはわからないが)、自分の起こした行動できっとあの少女は救われた、そうしなければ危なかっただろう」と、ストーリーに何の「調味料」も加えず、そのまま「自分」という容れ物に入れてみたら、釈然とした。そういう世界もありえるかもしれない、そういう不可解なことはあってもいいかもしれない。人が強く何かを望めば、現実と非現実の境界線を動かせるかもしれない、と。

全ての伏線を回収しなくてもいい、少なくとも今はそうしなくてもいい。頭の回転と連想が追いついてないのは仕方ない。分からなければならないものでもない。いつか自分で悟るか(その見込みは全くない)、誰か詳しい人に説明されるか(自分からは聞かないだろう)、流れに任せよう。


余談その一

この肖像画を書く絵描きの主人公の仕事ぶりもなかなか面白い。

生計のために肖像画を書くようになったが、それなりに自分の流儀のようなものを貫いている。依頼を受けてからは依頼主と面談して、その人の光るものを見つけ、(脳内で)スケッチを何枚描いて輪郭を捉え、キャンバスに荒っぽい「骨格」を落としてからはスツールに座ってただじっと絵を眺め、作品の「訴え」に耳を澄ませ、寝かせて自然に膨らませ、「今日はここまででいい」と言ってあっさり上がるワークフローを、具体的に、ありありと再現した。アーティストのみならず、クリエイターの方々ならどこかで共鳴できるところは絶対あるだろう。

例えばこのブログでの記事も似た過程を得て生まれる:あるトピックの種を掴み、スケッチして大まかな構成を練り、書き出したドラフトを眺め、繰り返す編集で肉付けしては贅肉を削ぎ落とし、最後にやっと公開される。(収入にはつながらないけど)

余談その二

この本は知り合いの先生から借りたもので、その先生は村上春樹の小説とエッセイを通読している。その時の会話がこんな感じだった。

「先生、この『騎士団長殺し』はどうでしたが」
「ん。。イマイチだったかな」
「そうですか、ちょうど本屋で見かけて、買って夏休みの時に読もうと思ったんですけど」
「貸してあげるよ」
「あ大丈夫ですよ、どうせ買おうと思って」
「いやいや、買うほどではない」
「…」

「買うほどではない」、それが思いのほか響いている。ので、まだ自分で買いってはいない。

おまけ

207ページの内容を引用(男性にしか効かない質問)。

「こんなことをうかがうのは、失礼にあたるかもしれませんが、ひょっとして、奥さん以外の女性がどこかで、密かにあなたの子供をもうけているかもしれないという可能性について考えてみたことはありますか?」

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
2017年09月04日(月) Book

リバウンドを取りに今日もジムに行く

去年履いてた短パンがこの夏にはきつくなり、デブ化の進み具合を痛感し、ジムに通いはじめている(何しろこういうのは人生初の体験)。たっだ数日ではもちろん効果は出ない。それでもやり抜くためには、何かしら自分に言い聞かせの言葉が必要になってきた。

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“Every step is progress.”(一歩一歩がプログレスだ)

これは前の同僚からの口癖で、僕はずっと借用してきた。特に走る時などに、何回も脳内で再生ボタンを押している。言葉通り一歩走ればそれが結果に繋がると信じて。

しかしひたすら走ってもその「プログレス」がなかなか感じ取れない——痩せたと思えばそうかもしれないし、ただの気のせい、日々の誤差に過ぎないかもしれない。このままジムに通い続けるには、さらなる精神的な糧が必要になってきた。

(ここから先はややこしいことを書くことになる、少なくとも言葉的には。)

思いついたのがこのキーワード:「リバウンド」だ。


体重、運動、ダイエットなどのコンテキストにおいてはなんと人間の意に反するネガティヴな言葉。せっかく痩せたのに跳ね返したりするのは厄介のことだ、いうこともない。

今回はあえてその単語をそのコンテキストで違う意味で書いてみたい、バスケから借りて。

バスケにおいてのリバウンドといえば、スラムダンクだろう、と勝手に個人的な体験から決めつけさせていただく。

安西先生の名言を借りると、リバウンドの存在意義は「つまり-2点が消え、+2点のチャンスが生まれる」である。

スラムダンクリバウンドの意味、安西先生から

どうしても身体がだるくてジムに行く気がない時は、こう考えればいい。

家でゴロゴロ寝転ぶのは一目瞭然の-2点で、ジムに行くのは確実に+2点のチャンスを作ってくれる、すなわち4点分の働きってことだ!

これは他の何か新しいことや習慣に挑む時も適用できる。万里の長城は一日で作られてはない。レンガを敷くのはプログレスではあるが、万里の道のりは長い、そしてその進捗を感じ取るには、一つのレンガがあまりにも微量すぎて、途中で挫折しかねない。

その時にせいぜい自分への励ましの言葉として使ってみたい。

「すぐに勝たなくても、今はダッシュの気分じゃなくても、失点を防いで、確実に得点に繋がるためのリバウンド(チャンス)を取るに行くのだ!」、と。

2017年08月21日(月)

誰に読まれたいのかーー検索エンジンか、人間か

ライターとブロガーの鍛える筋肉について

ブログを新しく始めている人、真剣に取り組んでいる人、ブログで生計を立てている人、誰でも通る道であろうSEOと、それがどう書き手のモチベーションに影響するのか、いくつかの感想を伝えたいと思う。

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まずSEOとは「検索エンジン最適化」の略称で、グーグルのような検索結果の上位に自分のブログを載せるために、色々と工夫することである。どういうルールで一位と評価されるかは複雑でかつ企業秘密なので、細かな詳細は公開してないが、「いいブログ市民」になるためのガイドラインは出している。それがまたネット環境の進化と変化により年々更新していく。

人気のあるブログを見ると、冒頭に大きな写真を用いたり、サブタイトルをきちんととつけたりして、読みやすさを向上するのがある。ただ、SEOのことを意識し過ぎたものも存在して、例えば読み手が「脳死状態」でもこれだけは絶対見逃して欲しくない部分を、大げさな太字+大文字コンボにしたり、ハイライトの線を引いてくれたり違う色にしたり、インターナルリンクを多数使ったり、SNSへの投稿を(露骨に)誘導したりして、釣りタイトルや、釣り画像も濫用されるのがある。

情報溢れる時代で、人間が一つのWebページに与えられる「離脱するまでの猶予時間」は限りなく少なくて、目を惹かれる写真は効率的な対処法かもしれない。実際の内容と関連性がなくても、萌キャラの女の子を表紙にするだけで、ネットならより多くのクリックを、本屋ならより多い人の手にとってもらえるかもしれない。

「検索エンジンにインデックスされない、イコールインターネットに存在しない」」と、どこかで読んだのを思い出し、だからみんなが注力するわけだ。

もちろんデジタルだからこそ、リッチメディアのアドバンテージを駆使して、よりいい形に情報を整理し提供するのは全然ありだが、周りの環境を見る限り、少々行き過ぎた感はある。少なくとも同じ「文字」を扱い、「情報」を伝える同士のはずのネットを媒体とするブロガーと、紙を媒体とするライターの間では、鍛える「筋肉」が違うと確信した。


一つは、「人間という読み手への最適化」をする前に、「マーケティングとマシンへの最適化」を優先してしまっている点。

ライターの場合、小説の作者だろうが、企業のコピーライターだろうが、それの成果物はすなわち「文字の集合体」のみ。それだけで勝負するから、余計なものを入れる余地がない以上、自然に意識するのは読み手への最適化。

ブロガーの場合、コンテンツ以外ーーつまりSEOのためにーー力を入れすぎて、かえって全体が読みにくくなるのが問題。読みたい文字よりも「周辺のノイズ」がより目立って、ビジネス臭いを匂わせる。読者を意識して、読みやすさのためにブレイクを入れたり、サブタイトルをつけたり、ポイントを強調したりして、文章の構造に手を入れるのはウィンウィンのはずだが、その一線を超えた激しい「セールピーチ」は逆効果で、こっちは引いてしまう。


もうひとつは、ブロガーのモチベーションとフィードバックの問題。

何事も同じで、ブログを開設するのは簡単だが、続けるのは難しい。参入障壁が低い分、途中で脱落者も多い。要因は人それぞれだが、ここで特筆したいのは書き手にとってのフィードバックだ。

ブログのフィードバックってどうやって測るのか?一般的にはアクセス数やSNSへの拡散、金銭的には広告の収入などが考えられる。そのピラミットの頂点に立った人は、また初心者に向けて丁寧に「こうすればロケットのようにアクセス数が伸びるよ」的なものを書き、みんなを同じ方向へ導こうとする。

それはそれで知識の伝達にはなるが、その数字で測れる「頂点」を目指してこのブログの世界に入った人にとっては、敗北も同じく数字で残酷に、明確に測れる。

どんなに書いてもその「数字」が伸びないから、モチベーションが下がり、挫折し、やがて諦める。もちろん色々と試して自分に向いてないものは、綺麗さっぱり撤退するのも重要だが、中ではきっと書くこと自体が好きだが、「書いてて手応えがない、アクセスが少ない、誰もシェアしてくれないから私は書くのをやめる」、という人がいて、そのやめ方は一番残念なパターンだと思う。実に残念。

映画『インテーステラ』の中で無限に広がっている宇宙を、主人公が一人で彷徨い続けるシーンがあった(だいぶ昔に観たのでもしかしたら似た題材の『グラビティ』だったかもしれない🙏)。燃料が切れた以上推進力を失い、叫ぼうとしても何も聞こえない「無の空間」は切ない。

このブログもそのような空間を走行していた時期があった。「数字のフィードバック」だけを頼りに先に進み、行き詰まっては挫折し、ブログを完全停止にした時期もあった。再開のきっかけは、やはりどうしても、何か書きたい気持ちが抑えられなかったからだ。

「書くことは自分を知ることだ」と『僕だけのいない街』に八代学がそう書いていた。何か自分の中でまだもやもやした「課題」を見つけ、書き出す工程で納得の行く結論に導かれることがどれだけ爽快なことか、だったらSEOやらSNSなんざ気にしなくだっていいじゃないか?次の何万クリックを目指す記事よりも、自分が好きなものを書けばいいじゃないか?

「検測エンジンでの評価=人間が読みたいもの」とは違うし、クリックウィンを求めるネット民衆のマインドセットが変わらない以上、いくらマシンとそのアルゴリズムが進化したとしても、決して全ての人間の意思を反映することはできない。

ので、マシンの評価を無駄に意識して、自分の文章を妥協したり、挫折したりするのは本末転倒だと思う。自己満足に過ぎないかもしれないが、自分の中の「内なる声」に耳を傾き、それを引っ張り出し、再構築し、発信し続けることにきっと意味はある。「どんな髭剃りにも哲学がある」のように。読者はそのうちきっと集まる。

8年間ブログをやってきて、今更自分らしい文章のフォーマットを探り始めたところの一編だった。

2017年07月23日(日) Writing

ポイントカードは持たない派

ポイントカードだらけ

「当店のポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「今すぐ作れますがいかがなさいますか?」
「結構です」

ポイントカードほどめんどいものはないと思う。
計算してみれば大して割引にならないのに、
忘れた時の精神的ダメージが大きい。

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・店ごとに独自のポイントカードがある
・いちいち財布のスペースがとられる
・あまり利用しないところだと、ポイントが使える閾値までそもそも到達しない
・「あと3回で500円の割引」と釣られ、行く予定もないのに行ってしまったりして、自分の行動パターンがたかがのポイントに変えられるのが悔しい

などなどの理由でポイントカードは持たなくなった。


逆にどうすれば消費者に好まれるのか、少し考えてみた。

イギリスのブリストルで一つのカフェに行った時のことを思い出した。
Friska The Eyeという店ではスマホアプリ(ロイヤリティアプリという)を出していて、ダウンロードすれば支払い、ポイント、新着情報などが全てそのアプリを通して完結する仕組みだ。

プリペイド式だけど、一回切りで後の支払いが楽になるし、物理的にスペース取らないし、キャンペンコードで一杯コーヒーを無料など、消費者としては確かに利便性の高いものだ。

店側でも新商品をアプリを通して宣伝できるし、混雑時スムーズに会計ができて少しは楽になる。

もし、行きつけのカフェにこういうのができたら、紙のポイントカードよりかはいいかなと思った。


ただ全部の店がまた独自のアプリを開発するのもコストがかかるし、消費者のスマホのスペースが取られるのもな・・ヴァーチャルとは言え、「ポイントアプリ」で携帯を充満するのもまた原点の問題に戻ってしまう。

そしたらやはり何か「共通のインターフェース」が必要になってくるかも。技術は既に揃っているけど、後は「普及力」が追いついてくるかどうかが鍵になると思う。AppleとGoogleの巨人達の影響力と実行力でこの辺は変わるだろうか?

2017年07月22日(土) Consumer

本:「雪煙チェイス」、東野圭吾

本屋で冒頭の数ページを読んで買うことを決めた。開幕のシーンがよかった。惹かれたっていうか、刺されたって言うか。

わざわざ早朝に一人で車を運転してスキー場にやってきて、パウダーゾーンを狙う主人公、そこに自撮りに難航していた一人の女性スノーボーダーに気づき、シャッターを押してあげることにした。定番の「念のため、もう一枚」という時に、「ちょっと待って」と言われ、その女性はゴーグルをヘルメットの上にずらし、フェイスマスクを下ろした。元々覆われた顔が現れ、主人公はどきっとしたわけだ。その後、女性は密集した木々の間を、雪煙を上げながら滑り抜けていく。あっという間に引き離され、見失ってしまった。残されたのは誘えばよかったと後悔した我が主人公…

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このオープニングは結構好きだな。もし最初から顔が見えてしまったら、また話は全然違うテーストになるだろう。この全く期待感のない、無防備の状態で急に好みのタイプの女性が実は目の前にいたという「発見」に、男は弱いかもしれない。

ストーリーの舞台はスキー場だが、僕みたいな全くスキーやスケボーの経験がない人間にも十分楽しめた。「パウダーラン」とか、「未圧雪の上級者バーン」とかの専門用語も知らないし、「孫悟空の筋斗雲に乗っているような浮遊感と疾走感」とかも体験したことがないけど(体験したいとは言ってない)。

人を殺してないのに訳あって逃げないといけない、警察なのに訳あってバッジを見せて堂々と捜査することができない、こういう巧妙な場面を作り出したことがすごいなと感心した。

構成上二人の大学生とかれらを追う二名の刑事、それにスキー場の人達という、大きく三つのグループに別れてて、章ごとに交互にそれぞれのストーリーが書かれてる。誰が主人公という設定はないと言ったほうが正しい。タイムリミットがある中、それぞれが自分の立場から真実を求めていくのが、とにかく面白かった。ただ登場人物が多いせいか、キャラが成り立ってない、存在感が薄いなどの印象もある。


全体的には読みやすかったけど、読み終えて少し吟味すると、やはり違和感を感じた部分があった。あくまで個人の感想なんで、別に批判したいわけではないので、軽く読み流す程度で読んでください。(ネタバレあり)

一番大きな違和感は「女神」ーーすなわちアリバイを証明してくれる、シャッターを押してあげたその女性ーーの正体が最終的にわかった時、アンチクライマックスな気がした。それは読者が中盤に「あ、この人か!」と簡単に予測できないように、配慮したかもしれないが、そもそも「女神」本人に対してあまり書けないから、「女神探し」というメインストーリーの最後は、「あまり知らない人が女神だった」、のような後味の悪いエンディングになってしまったのが、個人的にすごい残念だと思う。

この三日後には花嫁になる人、たまに登場するときのリンとした話ぶり、落ち着いた雰囲気、スキー場のために身を削るという人物像と、あのミステリアスの「女神」ーーハート形に見える山を背景にピースサインを出して自撮り、主人公に「バッチリです」と言って指で輪を作るという仕草、この落差がどうしても受け入れがたい。第1章で「誘えばワンチャンあり」の雰囲気を出したのがよくなかったかもしれない。

ぶっちゃけ、「女神」より旅館の女将さんや妹の友人の千晶の女性キャラクター達のほうが、もっと前に出ているという矛盾があるのでは、と思った。せっかく最後に「女神」を見つけたのに、物足りない感が半端なかった・・・

あとは刑事の上司の南原があまりにも単調すぎて、普段はうるさいけど実は最後に部下をかばう立派な男かも、とちょっと期待したんだけど、結局ただのステレオタイプの嫌な人で終わった。


後半色々と文句をいったふうに書いてるが、小説自体は悪いとは言ってない(笑)。こう言った「気づき」も読書のワンセッションだと思って、整理して書き出した次第 😄

2017年03月18日(土) Book

本:「ハーモニー」、倒立したディストピア

これは伊藤計劃の二作目の作品である。前作「虐殺器官」の続編とも言えるけど、読んでなくても本作は十分楽しめる。先端技術を使った戦闘シーンはない分、世界の壮絶さとエンディングの吟味具合は最高だ。

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世界観

冒頭を読んで少し心配してた。「ハーモニー」というタイトル、三人の女の子、大人になりたくないと社会に文句を言う始まりから、もしかしたらそこらへんのアニメと似たような平和ボケのストーリーかと思ったら、20〜30ページ読んでどこか「安心」した。「真綿で首を絞めるような、強権的な優しさに息詰まる世界」、じわじわとその息苦しい世界観が伝わってくる。

時代は「大災禍(ザ・メイルストロム)」の後、世界中に混沌と騒動が起きた後、ようやく平和を手に入れた人類は、二度とこんな大惨事が起こらないように肉体と精神の極限なハーモニーを求めて、「生命主義」の端までたどり着いた。医療技術の進歩で人間は事故と老い以外は死なないようになり、その対価に成人になると体内にWatchMeというものを入れられ、身体の状態データからあらゆるプライバシーのデータまで常に政府の次形態である「生府」に送り続ける必要がある。

つまり自分の行った場所、聞いた話、見た景色全てが監視されている。今の常識から見ればありえない話だが、それでもそういうプライバシー侵害の心配を遥かに上回るように、社会は平和と慈愛に満ちいるから誰も気にはしない。「心的外傷性視覚情報取扱資格」、映画を見るには、暴力的な資格情報に接するには、法的に定められたこんな資格が必要になってくる。人は喧嘩や紛争すること自体忘れているかもしれない。

面白かったのが、「プライバシー」という単語はその世界で「やらしい」というニュアンスに進化してしまった。自分の年齢、職業、社会的評価点数など、ほとんどの情報が公開している以上、唯一残されているのは、もはやセックスする行為のみ。

誰もが優しくて、健康で、人思いの理想郷とは相反に、妙に子供たちの自殺率は上昇する一方。「優しさは、対価としての優しさを要求する」。子供はこの重たる「空気」を鋭く感知し、憂鬱になり、追い込まれた末、自ら命を絶つことになってしまう。主人公もそれを図ろうとした大勢の子供の中の一人。

主人公の執念

霧慧トァンは螺旋監視官という生命主義の中で最もエリートの職に就いていながら、職権濫用までしてタバコや酒を手に入れようとしている(これらのグッズは生命最高主義への一番な冒涜で、で完全に貶されるものとなり、通常ルートでは入手できなくなっている)。その執念は13年前の親友の死から始まっていた:一緒に自殺することで誇り高く生命主義に対して皮肉で致命的な一撃を加えようとしたが、親友をなくし、自分だけが生き残った。「なんで私は死ねなかった」と、自分で自分を苦しめ、この無念から物語はどんどん展開する。

そして世界的な「大事件」が起きる。それを読んだ時の衝撃はよく覚えている。不意打ちを食らった後は、ひやひやしてた。背筋に冷たい刃物を「ぐさっ」と刺し込まれたたような感触だった。文字だけでここまで伝わるものかと感心する。

醍醐味

一番の醍醐味はやはり「意志とは」、「進化とは」の哲学的な議論だ。テクノロジーが極めて発達した世界で、論理や自我の矛盾はより対立となり明確になる。これこそがSFの醍醐味で、伊藤計劃の得手だと思う。

何を持って「私は私である」と言えるだろうか?こう質問されて脳内で何かの答えを探ろうとして、「とある声」が勝手に鳴るだろう。この「内なる声」ー街を歩いても、ごはんを食べても、人と社交しても、このブログを書いている最中も、これを読んでいるこの瞬間も、常に脳内を迂回するこの声ーこの声こそが「私の意志」なのか?この「声」をなくしたら「意志の消滅」と言えるのか?その時人間はどうなるのか?こんな質問と議論が物語の中に潜んでいる。

数日後、妙に前友人と飲んだ時のことを思い出した。二次会の時にその友人は普通に喋って普通に飲んでいたのに、次の日には全く覚えてないと言ってた。途中から酔って記憶が飛んだらしい。つまりその間は「自動運転モード」に入ってるってことだ。その時の振る舞いは、果たして本人の意志と言えるだろうか、それともただ空白なのか?もし一瞬全世界が「自動運転モード」に入ったらどうなるんだろう?

この質問の余韻に浸って僕はもう一回本の世界に飛び込んだ。


諸々雑談

この本は2008年に書かれたらしい。今から8年前。時代の先読みがすごかった。ARとVRの世界、プライバシーの公開と漏洩、近年の話題が作品に先越されたような感じだった。

少し残念だと思うのが、章と章の繋ぎが弱いと感じた。せっかく章の終わりにフルスピードで突っ走ったレーシングカーが、次の章ではまたゼロからゆっくりとスタートラインを切るような感じ。

第一人称へのこだわりは最後のインテビューに掲載されている。一人称と三人称の優劣は村上春樹の「職業としての小説家」にも触れてあって、作者が何を評価してその手法を選んだか、これは興味津々。

色々面白い一行知識もある。例えばナチスとヒトラー

ヒトラーの母親は乳癌で死んだ。医者はユダヤ人だった。だからヒトラーのユダヤ人憎悪はそこに端を発している。ホロコーストはヒトラーの母親の乳房から生まれたというわけだ。右か左かは知らんが。
(ページ214)

映画もあるので、小説を読んでから観るとよりその世界の肉付けができるからおすすめ。ただし映画では百合になっていて、原作とだいぶ味が変わるから気持ち悪かった。「親友で同志でカリスマの存在」を失くした痛みと「ただ」好きな人を失くした感情とは、レイヤーがそもそも違うから。

瑕疵は多少あるけど、全体としては十分よかった。これで伊藤計劃の三部作のうち二つは読んだから、残りの「屍者の帝国」も楽しみだ。

2016年12月02日(金) Book