kinopyo blog


もの書きの引き出し(からのちょい出し)

まあまあいい山から降りて、自分の山を探す

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1月にあった話。年明けで友人に会いに行った。

約束の時間よりも15分早く着いたから、時間つぶしに困ったとき、ちょうど電話通信があった。見覚えがある。確か8年前に転職活動してた時に登録した人材紹介エージェントだった。

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それからも年に数回、募集案件をメールで紹介し続けてきた。担当者が8年間の間で何人も変わっていても、そのメールは途絶えることがなかった。最初のうちは丁寧に「転職は当面考えていない」と返信したが、最近はもうほとんど未開封のままにしておいた。

でもいきなりの電話は何なんだろう、初めてのパターンだ。
と思いながら、普段なら留守電にしたはずだが、今はちょうど時間も余っているし、電話に出てみようと思った。

「もしもし?」
「あ、ニハウ、シーピアオシェンスンマ?」と女性の声が聞こえてきた、綺麗な中国語だ。
(「もしもし。こんにちは、朴さんですか?」)

「はい、そうです」
「私、〇〇エージェントの〇〇と申します。今ご都合はどうかな?少々お時間いただけますか?」

とこう訳しているけれど、中国語はビジネスのシーンでも日本語ほど相手との距離が遠くなく、特に電話でのこの方はカジュアル、フレンドリー、かつ失礼のないバランスがよく取れた言葉遣いが印象的だった。

母国語を聞くのがだいぶ珍しくなった今、特に女性の声というのは妙に親切感があった。恥ずかしいけど、うちの母以外に中国語を喋る女性はほとんど周りにいないから、いきなり懐かしい気持ちが湧いてきた。

(以下、電話の内容は日本語に翻訳している)

「はい、少しなら、何のことでしょう?」
「よかった、ありがとうございます。今〇〇の大手企業からの求人情報がありますが、興味ありますか?どちらも先端分野で、話題のAIやクラウドなど扱っており、報酬も手厚く、朴さんのスキルとの相性もいいと思いますよ」
「それはどうも。でも今は特にそういうの考えてないのでなんとも」
「そうですか?もし差し支えなければ、今の職場や業務内容等教えていただけますか?今すぐではなくても、これらの情報をもとに、またいい条件があったらお力になれと思いますので」
うー、内容をわかった今、本当はここで電話を切りたいところだが、綺麗な母国語に変に吸い込まれたのか、もうこのままちょっと会話を続いた。

今の仕事をざっくりまとめて伝えると、電話越しでキーボードがぱちぱちと打たれた音が聞こえてきた。確かにそっちが持っている情報はもうだいふ古くなっているはずだ、これの機にデータを更新する気だろうな。

「え、では10年以上の勤務経験とRailsでの開発が7年で、今もエンジニアをやっていると。ふむふむ。ちなみに今の年収はどれくらいですか?」と更に打診してきた。うまいな・・
嘘をつくのも、逃げるのもあれだし、正直の数字を伝えた。
「おー、はいはい、なるほどなるほど」
そして、その数字がパソコンに入力された音がした。

ここでふと思って、今度は僕から質問を投げた。
「それって、どんな感じですか?」
「どれどれ、ちょっと待ってね。今年34歳で、10年の経験と・・(パチパチ)・・うん!まあまあいいんじゃないっすか?」
その「まあまあいい」というのを一体どう解釈すればいいのか。質問をした自分がアホだった。まるで自分がコンビニに並んでいる正規化された商品のように、「横34、縦10、奥○」という座標の棚から取り出され、バーコードをピッてスキャナーして、「まあまあいい」という値段が出た、そのような感触を受けた。

僕という人間は、そこのデータベースでは極めてシンプルに34と10で表現できる存在なのか。僕だけじゃなく、そこのデータベースに、いや、全ての人材紹介データベースに、一人ひとりはデータ化され、その「座標」だけで瞬時にその人へのある種の評価が出せる。「まあまあいい」とか、「ちょっと残念」とか、「ずば抜け」とか、「これはひどっ」とか。

僕らは年齢と年数と年収以外でも、数字で測れないたくさんのものを持っていたり、背負っていたりするのに、こうやって電話越しで、会ったこともない人間にある種の評価が下せるとは、なんだか腑に落ちない。大げさなのは知っているけど、それでも。

「次もし転職するんだったら、希望年収はどれくらいですか?」と続いて、次の質問が飛んできた。
「あーそういうのは一旦いいや、今は数字に麻痺している時期なんだ」と僕は素直に言った。
「え?麻痺?数字?」さすがに予想外の答えで向こうも動揺を隠せなかった。
「大丈夫ですよ、今のベースがあればこれからどんどん伸びますから!」と気を取り直して、元気にまとめてくれた。
「あ、でもね、転職なら40前のほうがいいですよ!」と最後にアドバイスをくれた。
「へー、そうなんだ、そういうのがあるんだ」
「そうだよ、そこからは厳しくなるからね、今のうち考えといたほうがいいよ」
と挨拶をして、この辺で電話は終了。母国語という懐かしい風景に魅せられ話をどんどん聞いてたら、一人で勝手にとんでもない闇に落ちていった。

決してこのエージェントさんの観念や彼女の職業そのものを責めるつもりではない。彼女らのおかげで僕も次々と違うことにチャレンジしてきたし、実際会ったらしっかりと相手と向き合って、全面的に評価する姿勢と手段ももちろんあると信じている。

ただ哀愁的に感じるのは、このわかりやすい「座標」ーー年齢、年数、年収ーーがまるで社会においての自分の「立ち位置」のように、それをもとに互いの「幸せ度」が比べられたり、その結果によって一喜一憂なになったりするのがおかしいと思う。何か大事なことがずれているような気がする。

会社には会社を評価する「座標」があり、学生にも学生の「座標」がある。そして美味しさの座標、買得な座標。株が落ちたからこの会社はもうだめだと、成績がトップだからこの子は大丈夫だと、食べログで4点以上だからこの店は絶対美味しいと、今だけ実質0円、これは買わないと損すると。

こんな「シンプル」に見える座標の上で、僕たちはいかにも難しく生きているのはないかな?そのわかりやすい「普遍的な」価値観念に囚われ、大事なことを見失ってはないのかな?

人生は勝負ではない。それぞれの山はそれぞれの心の中にある。自分のペースで行けばいい。一人でこうは思っていても、「座標」のシステムはいかにも浸透しているから、勝手にレースに出させられたりする。

『響 〜小説家になる方法〜』の漫画で一番印象に残る価値観の衝突は、直木賞と芥川賞をダブル受賞した天才少女は、その後もいつものペースで生活したいのに、世間はその正体を暴こうと大騒ぎするくだり。その反面、「芥川やらとらなきゃ作家じゃないみたいな風潮なんなんだよ、だったら全員に配ってくれ」と人生のすべてを賭けていても、賞を取れなかった人たち、行かざる座標に行けなかった者たちの心境を通して、好きなことをやって生きていくというのがいかに辛くて厳しいかを表現した。

何も真剣に考えずにこの世界のレールに乗ったまま、「まあまあいい」というところまで来た今、僕は改めてこの構図を理解し、自分の生きていく方程式を構築しようとしている。

2018年04月07日(土) Value

僕たちがやりました、その叫びの裏には

僕たちがやりました

ある日、偶然にiBooksで第1巻を試しに読んでみたら止まらなくなって、勢いで9巻まで一気に全部読んちゃった、そんな魔力のある作品である。読み終わってからだいぶ時間が経った今でも、まだ妙に心がディスターブされ続けている。ちょっと暗いテーマにはいつも惹かれるが、本作には上位に乱されている。素晴らしい。

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最初の数ページで、どうしよもない主人公たちのどうしようもない日常を見て、この作品は一体何を伝えたいのだろうと思いきや、まさかのいたずらが大事件になって、そこからプロットが「爆発的に」邁進する。

犯罪を犯してしまった。人を殺してしまった。その後どうする?よくあるパターンは自己正当化なり、現実逃避なりして、最終的に耐えきれず自首するか、あるいはそこを「乗り越えて」サイコパスになるか、という流れが考えられる。『罪と罰』、この名作も極めてシンプルに要約すると上の範疇に入る。

しかし『僕たちがやりました』ではプロットがよっぽど複雑でよっぽど面白い(中毒性がある)。主に二つの点で差別化できている。

・単独犯ではなく、4人の集団
・訳あって自首する術がない

三人の中学生と一人のニートで金持ちのOB(通称パイセン)、彼らが不本意で犯罪を犯した後の心理の変化はもちろん、その波動で集団の関係にも大きな壁ができてしまう。かつては一緒にバカけた友人が、明日には用心深く警戒しないといけない闇の使徒になる。無言無声で滑稽な笑顔さえ伴う戦争ごっこ。

この絶妙な多角の博戯関係が作品のバックボーンであり、各人が葛藤の末、どんな道を選んだのかも吟味するところである。

そして何よりも別格なのは「自首できない局面」を作り上げたこと。このひねりを通して表現した矛盾が本作の醍醐味だと思う。「僕たちがやりました」、題名通りのその叫びはどこまでもなく辛くて、かつどうしよもない。なぜこうなったのかは是非ご自分で読んでください。

法律は人を裁くのではなく、人を救うために存在するのだ。

どこで聞いたのかは忘れたが、最後まで読んでなぜかこの言葉が浮かんだ。罪を償えないままそれと生きていくのがどんだけ辛いのか。幸せになっているはずなのに、幸せと感じている最中なのになぜかへとが出る。人間はそんなダークなものを背負って生きていけるような生き物ではないじゃないかな。


他の登場人物も見事に仕上げた。心の強い蓮子と彼女の叶わない恋、内話を明かした市橋のまさかの最後、真実にたどり着いた刑事が四人にかけた呪い、などなど。

最初は過激な描写や画風に戸惑ったのだが、やがて腑に落ちた。メイクセンス。人間の見苦しさ、無様な姿をとことん表現するにはぴったりだ。

一つだけ印象に残るセリフをあげるとしたら…主人公がドン底に落ちて、生きる意味も分からず、ゴミ箱の中の残飯を口に運びながら吐いたこの言葉でしょうか:

お願いします神さま…どうか今日が、人生最悪の日でありますように


ちなみにNetflixに実写版のドラマがあって、テーマソングが最近流行っていたShape of Youとなっている。おかげでこの曲を聴く度に胸がいっぱいになる。感情輸入しすぎたか。

2018年04月02日(月) manga

豚ですね

金曜日のチームランチ、総勢11人でブラジル料理を食べに行った。

会計時、俺が先頭を切って伝票をカウンターに置く。
店員さんが回ってきて「ご一緒でよろしいですか?」と俺に尋ねる。
その気持は分かるが、残念ながらここは会社の経費を使う場合ではない。

「別々でお願いします」
「あ、えー、少々お待ち下さい」と言い、テキパキとパネルをタッチする店員のおっさん。
「えー、そしたらお客さんはー?」
「豚肩ロースのステーキです」
「えっと・・・」また一連のタッチ操作。

やっと受取の体制が整ったのか、急に頭を上げ、しっかりこっちの目を見ながら響く声で「豚ですね?!」と再確認する。
「・・・」
黙ってお金だけを差し出す俺氏。

そしたら後ろに並んでいたTさんも同じく豚肩ロースのステーキを注文したらしく、それをおっさんに伝えたら案の定、「豚ですね?!」と来て、ぽっちゃりで人好のTさんは無防備の状態で元気よく「はい!」と答えた。

「豚肩ロースのステーキを注文した人間です!」と突っ込めばよかったと後悔。
客の顔面に向かって「豚ですね」と連発するのはちょっとな・・・

進撃の巨人 エレン 質問の意味がわかりません

進撃の巨人 エレン 人間です!

2018年03月02日(金)

君たちはどう生きるか

色褪せない人生の一冊

湧き出そうとする涙を必死に堪えて、雪の積もった道をひとりの少年が狼狽えていた。彼は自分のなしたこと、いや、なさなかったことに悔やんでいた。友達を裏切った罪悪感、取り残された孤独感が押しかけ、連日、布団から出られなくなった。死んだほうがマシだ、とさえ思った。

そんな時、彼のそばにやってきたのは、彼の叔父さんだった。そして一冊のノートを残してあげた。そこにはこんな言い伝えがあった。

「いま君は大きな苦しみを感じている。なぜそれほど苦しまなければならないのか。それはね、コペル君、君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。

それに心を打たれたのはその少年と、その本を手にとって読んでいた私であった。

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漫画 君たちはどう生きるか


最近どこの本屋に行っても、漫画版の「君たちはどう生きるか」が展示され、その景色に圧倒されていた。流行りものへの好奇心で、冒頭の数ページを読んでみたら見事に魅せられ、虜になってしまった。この一冊は今の自分に、将来の自分に、そして次世代に残すべきだと強く感じた。

「君たちはどう生きるか」、一見タイトルからは難しいことを問われ、この体のことは苦手だと、遠ざけてしまう方々もいるかもしれない。そんな心配はまったくないと証言しよう。何しろ、元々は戦時の少年向けの本なので、その誰しもが困惑で動乱な時代背景で、「人間として立派な人生をどうやって生きるか」ということを極めてシンプル、かつ深みと温かみのこもって書かれた名作である。

そして、15歳の少年のコペル君の日常に焦点を当てる、その切り口も絶妙だと思う。学校は社会の縮図であるように、我々社会人はただ違う制服と肩書きを被るだけで、そこに感じさせる喜怒哀楽は同価同質のものである。さらに、漫画という媒体で繊細かつ無造作にその物語を再現して、より容易く大衆に浸透できるんじゃないかな。(そして私みたいに漫画読んでからそのまま原作の本を買う流れもありだし)

さて、一つだけ、自分の収穫を紹介するとしたら、それは感謝の気持ちである。
決して当たり前のように思ってはいなかったが、ごく普通に学校に行くことができ、教育を受けて人生の基盤を築いたことを実させた親に——
朝晩食事の支度をしてくれて、帰る場所と帰る意味をくれて、こうやってじっっくりと本を読んだり、ものを書いたりすることができる、暖かい家庭を支えている妻に——
順調とは言えない職場だが、衣食住に困らず、生き残るために自分の信念と意思を妥協することもなく、自分のままでいられ、その生活のインフラを提供してくれている会社に——

ありがとう。

いくらでも恩にきる人々の顔が頭をよぎるのだが、本の紹介の話から逸れるので、ここでは割愛する。

一年の終わる頃にこの本に出会えて本当によかった。読み終わって全身から何かが湧き出そうとしていた、それは勇気・感動・共鳴の極みだろう。名作に震撼されるってこういう感じなんだろうな。きっと今後もお世話になり、その度に新しい学びと悟りがあるだろう。

決して軽々マーケティングのためにこの言葉を使わないが、私はこの本を絶賛する。

2017年12月02日(土) Book

それでも紙の本を選ぶわけ

数年前電子書籍の流行りに乗ってKindleを買った。感動のハニームーンも幕を閉じ、結局今は紙の本に戻った。その「両端」を行き渡った経験から、読書の原点に戻った理由を探ってみたい。

まずは電子書籍のメリットを評価してあげたい。

携帯性:物理的にスペースが取らない;どこでもいつでも、どのデバイスでも本が読める
検索性:キーワードだけ思い出せば簡単にその箇所を特定できる
メモ:気になったところを簡単にハイライトでき、またそれをウェブで読み返したり、例えばEvernoteにエクスポートもできる
辞書:わからない単語はその場で意味を調べ、それがフラッシュカードに登録され、後に復習できて、洋書を読む時超助かる
配布:本屋で取り扱ってない洋書でもデジタルなら容易に入手できる

ここ数年Kindleは常に進化していて、この先も期待できるのではないかと思う。

一長一短、電子書籍の強みはすなわち紙の本の短所。それでも紙の本を選ぶわけというのは、以下の点を評価しているからである。

ランダムの共有性と情報の伝達性

子供の頃、家の本棚には常に本がいっぱいあった。歴史、古典、パソコンなどどちらも父の趣味の本で、私は漢字が読めるようになってから勝手に本を取って読むようになった。その一冊一冊の本の影響の積み重ねがあるからこそ、今の自分がいると思う。

という筋書きで、自分の将来の子供にもそれを経験して欲しい。だから紙の本を買うのは一つの長い投資とも言える。家の本棚が暗黙的に次世代に影響と刺激と何かしらのきっかけを与えれば、十分のリターンではないかな?(一人の友人は、「子供に読んでほしい本」を判断基準にして本棚を整理していると聞いている。)

視野に置いてあるだけでランダムの共有性と伝達性があるのが紙の本の強みではないだろうか。もしiPadを子供に渡したらどうだろうか?ワンタップで素晴らしいゲームの世界に行けるから、そこでわざわざ電子書籍リーダーを開いて、本を探すエライ子供はいるのだろうか?

Eighty percent of success is showing up. (成功の80%を決めるものは、顔を出すこと。)

この名言のように自分にとっても子供にとっても、本が常に目に入るところにあることは大きな意味があると私は信じる。

二度読みと空間記憶

これは誰かも経験したことがあると思う——なんとなくこの本のここらへんのページの、左下にこういう内容が書いてあった、みたいな記憶。

紙の本だからその内容も、行間も、誤字も、全て変わらない。改行やスペースやマージンなりで人間はその「空間」・「視覚構造」自体を覚えられると、どこかで読んだことがある。本当に不思議だけど、何かを探したいときには大体感覚でそのページにたどり着ける。

その反面、電子書籍はページのレイアウトが可変であり、前回読んだ時と後で開いた時に必ず同じレイアウトになるとは限らない(同じ端末でフォントサイズを変えなくても)。「記憶の改竄」と言ったら大げさだけと、行間に凝縮された思い出は居場所を無断に変えられたような、後味悪い気がして仕方がない…(この意味で電子版の漫画はアリだと思う、紙のレイアウトと一致して不変だから)

本によるコミュニケーション

本を借り貸しすることで自然に会話が生まれる。読了して本を返すことはつまりもう一回合って、お互い感想を述べ会うことを意味する。内向な私にとっては大事なコミュニケーションのきっかけである。そしてある種「同じ体験」をした同士として、妙に親近感が生まれる(私が一方的にそう思うだけかもしれないが)。

ハンディカップからの逆襲

スペースとるから一本一本を丁寧に評価して買う。
積ん読のほとんどは電子版の本である。何せよ買って忘れる事案が多々発生してしまっていた。

所有感(個人差あり)

やはり物質的なモノを所持することにより、何かしらの達成感が芽生える。先祖から引き継いだこの感触はまだ電子の発展に追いついてないということなんだろう。簡単に言えば自己満足なだけかもしれない。


これらは完全に電子書籍を破棄せよと主張しているのではなく、あくまで1つの体験談として受け取っていただければと思う。本当にいい本は一度きりの体験ではなく、何度も繰り返し読みたいから自分の性と目的に合う媒体を選べばいいかなと思う。

2017年10月29日(日) Book, Opinion

言葉を捨てた時、『黙視論』読書感

『僕だけがいない街 Another Record』を読んだ時のしびれがまだ新鮮に体内に残っている。あの犯罪者の主観世界の描写が変に受け入れやすく、一瞬自分も犯罪体質があるのではと疑うまでだった。それから作者の一肇をフォローし、この度新作『黙視論』を読み終えたところである。

黙視論

なかなか面白いが、作者曰く、「正直、この小説はある特殊な気概をもつ奇特な方々以外には、あまりおすすめできません。」、とのことで、全員に超おすすめという感じでもない(けして自分だけが特別だと独占したいわけではない)。

ここではあえて本編には触れず、主人公の未尽という女子高生が「言葉を捨てた」行動自体について妄想を走らせたい。

少しコンテキストを足すと(ネタバレになるのかが不安)、「言葉を捨てた」本質的な理由は失うことが怖くて、その気持ちを自分にさえ悟られないように、と本の中で書いてある。

気持ちを自分にさえ悟られないように。その文脈からは、とある気持ちがすでに体内に潜伏し、当て字を選ぶように、その物体に当て嵌まる言葉を自分で悟ることだと考えられる。

さらにその過程を追伸すれば、人間は感情が先立ち、それに相応しいいくつかの言葉が後を追い、その中でもっとも適切なのを(ほぼ無意識的に)選別することで、気持ちのある種の収束ができるということになる。また、その言葉が持っている意味から「未来性」さえ暗示し、それも根強く、そこからの方向転換やその気持ちを断ち切ることが極めて困難になる。

「あの人のことが好きかも」と不意に内心で呟いた瞬間からは、今までのわけのわからない感情がまとまり、そして「好き」というコモンセンスから「ずっと一緒にいたい」という憧景が付属してくる。その未来が約束されないから怖い。ひょっとするとその悟りは「失い始める瞬間」をも意味する。人を好きになれた幸せ、それを得た同時にそこに終止符を打たれたような物語になるかもしれない。

…ならば、言葉が追いつこうとした時に言葉自体を捨てたらどうなる?その感情は着地点を失い、鎮圧され、痛みを感じる前に強制終了されるのか?それともただ悟られないまま温存され、辛抱強く沈黙の中で、いずれくる冬眠明けを待つだけなのか?

これがこの本を読んで一番楽しく吟味させられたことである。

2017年10月08日(日) Book

惹かれた電車の広告3つ

電車の中の数多な広告の中で、宝物探しのように自分にささるものを意識的に集め始めている。収穫数はなかなか伸びないが、厳選した3つをひとまず紹介したいと思う。

「条件は今よりいい会社。以上。」

DODAのこの転職広告を初めて見たときは素直にグッドジョブだと思った。数ある転職会社の広告の中で、ずば抜けてユーザー目線ではないだろうか。

キャリアアップもいいけど、
給料とか、プライベートとか、
大切だから。
条件は今よりいい会社。
以上。

結局のところ、これが一番シンプルで、みんなが結果として求めていることとじゃないかな?

今後のキャリアパス、情熱でやり遂げたいこと、そんな真面目で勤勉な人はいるにはいるが、ほとんどの人(特に就職したばかりの20代前半)はまだ自分のことをよく理解していないかもしれないし、難しいことを提示してもうまく回答できないかもしれない。

その中でせめてもの、譲りたくないものをこの広告は掴み、うまくキャッチフレーズにできたと思う。なかなか良い。

「いい成績ほど、母には内緒にしてた」

いい成績とったら真っ先に親に教えて、ご褒美をもらおうとしていた学生時代の私である。この通常の思考ルートと逆行する「ギャップ」がすごい。続きが気になって仕方がない。次の展開が知りたくなる。

ちなみに全文は以下となる

いい成績ほど、母には内緒にしてた

テストで満点なんかとったら、
母はきっと喜ぶだろう。

だけど、
それが母を苦しめることを、
私は知っている。

でもね、
交通事故で父を亡くして
進学をあきらめようとしてたのは、
私の方だった。

~交通遺児育英会の中吊り広告より~

『ワンランク上の〇〇』

当初(数年前かな)初めてこの言葉に出会ったときは、賢い!と衝撃を受けた。ただその高い汎用性と移植性によって、もはや街中に濫用されているクリシェとなってしまっているが… 本当に残念。

ワンランク上の旅
ワンランク上のホテル
ワンランク上の〇〇

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ワンランク上のサービスを享受するには、当然さらにお金を要するもので、それが商売の狙いでもある。極めてシンプル理屈なのに、万人に共通するある「属性」を賢く、巧妙に包んでいる。それは「ランク」の言葉自体にひもづく「階級感」だと私は思う。

「社会的階級」を登る辛さ、必要とされる才能と運気、これらを全て置き去り、「ワンランク上」のサービスを平等に味わうことができる、そう思わせてしまう。あたかもそのランクに自分は君臨したように、潜在意識への報酬と心理的満足度を最大限に強調し、要する代価(さらなる金銭)を最小限——無に等しい——に抑えた効果があると感じた。


車内広告のみならず、あらゆる商用ポスター広告による視覚への暴力は避けようがないが、その分、クリエーティブなものに出会った時の反動も大きい。それらは読み手に清新な風を吹き込んでくれるから、しばし宝探し続けそう。

2017年09月17日(日)

本:『騎士団長殺し』、ブラックコーヒーではなかった

村上春樹のノンフィクションは読んだことがあって、その独特の文体に日本語の感度が刷新された(惹かれたとも言えるだろう)。『騎士団長殺し』は初めて読んだ彼の小説で、感想といえば、ブラックコーヒーを頼んだのに中途半端にミルクが混ざっていて、どちらとも言えない味。豆はトップクラスなのに、若干残念な気持ち。

具体的に分析するには、とりあえず文章力とストーリーの構成の二つの側面に分けないといけない気がする。

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文章力は言うまでもない。自分好みの絶品の「豆」の味。前に読んだ『職業としての小説家』と一貫した筆風、コンテキストがフィクションに切り替え、人間の心理とか細かい物事の関連付けや比喩などは大変楽しめた。

ただ問題はストーリーにある(あくまで個人的な感想として)。「こんなの期待してない・・!」というのが本音。「こんなの」というのはつまりその「霊的な」イデアのこと——いつでも自由に現れ、主人公にしか姿を見せず、その姿かたちも自由自在に変換でき、あえてタイトルの騎士団長の容姿を借用していて、論理的に説明のつかない(詳しく説明したくもない著者の意図も含めて)その存在が、予想外だった。

サイエンスフィクションを読むつもりでこの本を選んだわけではないし、むしろちゃんとしたサイエンスフィクションなら何かしらその背景や世界観と成り行きを読者にきちんと教えるはずだけどね。単純に「村上春樹の小説の世界」を「初見」したものとして驚いた、この「不親切さ」に。

私自身、何の霊体験もなく、ごつ普通に生きてきたので、本の中に現れるこのわけのわからない「霊的なもの」(失礼)により、物語が変わり、実世界に影響を与えたようでなかったような、どう解釈すればいいかを悩んでいた。果たして主人公のその「神秘な国」への旅、あの地底の暗い横穴をくくり抜いたことにどんな意味があったのか、それが何で普通の人間世界の一室に閉じ込められた少女を救ったのか、関連付けがなかなかできなかった。そして著者にはそれを説明しようという姿勢もなく、理屈と論理的な「輪」を閉じることができなかった。もしかしたらこれは二週、三週してやっと線が繋がる設定かもしれないが、この長編をもう一回読もうとは思わない(少なくとも今は)。

絵に喩えるのなら、その技術で肖像画でも風景でも写実的に描けば素晴らしい絵になるのに、理解に難しい抽象画ができあがったイメージだ。それ好みのグループには受けられるかもしれないが、大衆向けとは言い難い。

もしかしたら、『職業としての小説家』で書かれたように、「小説が書けるかもしれない」と悟った時の著者の体験をこの小説で再現したかったのかもしれない。

それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした…平たく言えば、「ある日とつぜん何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。(42ページ)


少し間を開いてからはこう考えるようになった。あれをある種「自分の体験したこと」にすれば何となく一つの決着にたどり着けそうな気がしてきた。

この第一人称で書かれた「私」を自分のことに入れ替わり、「私が妻と別れて、山奥に一人で数ヶ月住んでいて、私に向けて鳴らされている鈴の音を拾い、謎めいた穴を開いて、騎士団長のイデアを解放し、やがてはやらないといけないことをこなし、(一見どこでどうつながっているかはわからないが)、自分の起こした行動できっとあの少女は救われた、そうしなければ危なかっただろう」と、ストーリーに何の「調味料」も加えず、そのまま「自分」という容れ物に入れてみたら、釈然とした。そういう世界もありえるかもしれない、そういう不可解なことはあってもいいかもしれない。人が強く何かを望めば、現実と非現実の境界線を動かせるかもしれない、と。

全ての伏線を回収しなくてもいい、少なくとも今はそうしなくてもいい。頭の回転と連想が追いついてないのは仕方ない。分からなければならないものでもない。いつか自分で悟るか(その見込みは全くない)、誰か詳しい人に説明されるか(自分からは聞かないだろう)、流れに任せよう。


余談その一

この肖像画を書く絵描きの主人公の仕事ぶりもなかなか面白い。

生計のために肖像画を書くようになったが、それなりに自分の流儀のようなものを貫いている。依頼を受けてからは依頼主と面談して、その人の光るものを見つけ、(脳内で)スケッチを何枚描いて輪郭を捉え、キャンバスに荒っぽい「骨格」を落としてからはスツールに座ってただじっと絵を眺め、作品の「訴え」に耳を澄ませ、寝かせて自然に膨らませ、「今日はここまででいい」と言ってあっさり上がるワークフローを、具体的に、ありありと再現した。アーティストのみならず、クリエイターの方々ならどこかで共鳴できるところは絶対あるだろう。

例えばこのブログでの記事も似た過程を得て生まれる:あるトピックの種を掴み、スケッチして大まかな構成を練り、書き出したドラフトを眺め、繰り返す編集で肉付けしては贅肉を削ぎ落とし、最後にやっと公開される。(収入にはつながらないけど)

余談その二

この本は知り合いの先生から借りたもので、その先生は村上春樹の小説とエッセイを通読している。その時の会話がこんな感じだった。

「先生、この『騎士団長殺し』はどうでしたが」
「ん。。イマイチだったかな」
「そうですか、ちょうど本屋で見かけて、買って夏休みの時に読もうと思ったんですけど」
「貸してあげるよ」
「あ大丈夫ですよ、どうせ買おうと思って」
「いやいや、買うほどではない」
「…」

「買うほどではない」、それが思いのほか響いている。ので、まだ自分で買いってはいない。

おまけ

207ページの内容を引用(男性にしか効かない質問)。

「こんなことをうかがうのは、失礼にあたるかもしれませんが、ひょっとして、奥さん以外の女性がどこかで、密かにあなたの子供をもうけているかもしれないという可能性について考えてみたことはありますか?」

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
2017年09月04日(月) Book

リバウンドを取りに今日もジムに行く

去年履いてた短パンがこの夏にはきつくなり、デブ化の進み具合を痛感し、ジムに通いはじめている(何しろこういうのは人生初の体験)。たっだ数日ではもちろん効果は出ない。それでもやり抜くためには、何かしら自分に言い聞かせの言葉が必要になってきた。

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“Every step is progress.”(一歩一歩がプログレスだ)

これは前の同僚からの口癖で、僕はずっと借用してきた。特に走る時などに、何回も脳内で再生ボタンを押している。言葉通り一歩走ればそれが結果に繋がると信じて。

しかしひたすら走ってもその「プログレス」がなかなか感じ取れない——痩せたと思えばそうかもしれないし、ただの気のせい、日々の誤差に過ぎないかもしれない。このままジムに通い続けるには、さらなる精神的な糧が必要になってきた。

(ここから先はややこしいことを書くことになる、少なくとも言葉的には。)

思いついたのがこのキーワード:「リバウンド」だ。


体重、運動、ダイエットなどのコンテキストにおいてはなんと人間の意に反するネガティヴな言葉。せっかく痩せたのに跳ね返したりするのは厄介のことだ、いうこともない。

今回はあえてその単語をそのコンテキストで違う意味で書いてみたい、バスケから借りて。

バスケにおいてのリバウンドといえば、スラムダンクだろう、と勝手に個人的な体験から決めつけさせていただく。

安西先生の名言を借りると、リバウンドの存在意義は「つまり-2点が消え、+2点のチャンスが生まれる」である。

スラムダンクリバウンドの意味、安西先生から

どうしても身体がだるくてジムに行く気がない時は、こう考えればいい。

家でゴロゴロ寝転ぶのは一目瞭然の-2点で、ジムに行くのは確実に+2点のチャンスを作ってくれる、すなわち4点分の働きってことだ!

これは他の何か新しいことや習慣に挑む時も適用できる。万里の長城は一日で作られてはない。レンガを敷くのはプログレスではあるが、万里の道のりは長い、そしてその進捗を感じ取るには、一つのレンガがあまりにも微量すぎて、途中で挫折しかねない。

その時にせいぜい自分への励ましの言葉として使ってみたい。

「すぐに勝たなくても、今はダッシュの気分じゃなくても、失点を防いで、確実に得点に繋がるためのリバウンド(チャンス)を取るに行くのだ!」、と。

2017年08月21日(月)

誰に読まれたいのかーー検索エンジンか、人間か

ライターとブロガーの鍛える筋肉について

ブログを新しく始めている人、真剣に取り組んでいる人、ブログで生計を立てている人、誰でも通る道であろうSEOと、それがどう書き手のモチベーションに影響するのか、いくつかの感想を伝えたいと思う。

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まずSEOとは「検索エンジン最適化」の略称で、グーグルのような検索結果の上位に自分のブログを載せるために、色々と工夫することである。どういうルールで一位と評価されるかは複雑でかつ企業秘密なので、細かな詳細は公開してないが、「いいブログ市民」になるためのガイドラインは出している。それがまたネット環境の進化と変化により年々更新していく。

人気のあるブログを見ると、冒頭に大きな写真を用いたり、サブタイトルをきちんととつけたりして、読みやすさを向上するのがある。ただ、SEOのことを意識し過ぎたものも存在して、例えば読み手が「脳死状態」でもこれだけは絶対見逃して欲しくない部分を、大げさな太字+大文字コンボにしたり、ハイライトの線を引いてくれたり違う色にしたり、インターナルリンクを多数使ったり、SNSへの投稿を(露骨に)誘導したりして、釣りタイトルや、釣り画像も濫用されるのがある。

情報溢れる時代で、人間が一つのWebページに与えられる「離脱するまでの猶予時間」は限りなく少なくて、目を惹かれる写真は効率的な対処法かもしれない。実際の内容と関連性がなくても、萌キャラの女の子を表紙にするだけで、ネットならより多くのクリックを、本屋ならより多い人の手にとってもらえるかもしれない。

「検索エンジンにインデックスされない、イコールインターネットに存在しない」」と、どこかで読んだのを思い出し、だからみんなが注力するわけだ。

もちろんデジタルだからこそ、リッチメディアのアドバンテージを駆使して、よりいい形に情報を整理し提供するのは全然ありだが、周りの環境を見る限り、少々行き過ぎた感はある。少なくとも同じ「文字」を扱い、「情報」を伝える同士のはずのネットを媒体とするブロガーと、紙を媒体とするライターの間では、鍛える「筋肉」が違うと確信した。


一つは、「人間という読み手への最適化」をする前に、「マーケティングとマシンへの最適化」を優先してしまっている点。

ライターの場合、小説の作者だろうが、企業のコピーライターだろうが、それの成果物はすなわち「文字の集合体」のみ。それだけで勝負するから、余計なものを入れる余地がない以上、自然に意識するのは読み手への最適化。

ブロガーの場合、コンテンツ以外ーーつまりSEOのためにーー力を入れすぎて、かえって全体が読みにくくなるのが問題。読みたい文字よりも「周辺のノイズ」がより目立って、ビジネス臭いを匂わせる。読者を意識して、読みやすさのためにブレイクを入れたり、サブタイトルをつけたり、ポイントを強調したりして、文章の構造に手を入れるのはウィンウィンのはずだが、その一線を超えた激しい「セールピーチ」は逆効果で、こっちは引いてしまう。


もうひとつは、ブロガーのモチベーションとフィードバックの問題。

何事も同じで、ブログを開設するのは簡単だが、続けるのは難しい。参入障壁が低い分、途中で脱落者も多い。要因は人それぞれだが、ここで特筆したいのは書き手にとってのフィードバックだ。

ブログのフィードバックってどうやって測るのか?一般的にはアクセス数やSNSへの拡散、金銭的には広告の収入などが考えられる。そのピラミットの頂点に立った人は、また初心者に向けて丁寧に「こうすればロケットのようにアクセス数が伸びるよ」的なものを書き、みんなを同じ方向へ導こうとする。

それはそれで知識の伝達にはなるが、その数字で測れる「頂点」を目指してこのブログの世界に入った人にとっては、敗北も同じく数字で残酷に、明確に測れる。

どんなに書いてもその「数字」が伸びないから、モチベーションが下がり、挫折し、やがて諦める。もちろん色々と試して自分に向いてないものは、綺麗さっぱり撤退するのも重要だが、中ではきっと書くこと自体が好きだが、「書いてて手応えがない、アクセスが少ない、誰もシェアしてくれないから私は書くのをやめる」、という人がいて、そのやめ方は一番残念なパターンだと思う。実に残念。

映画『インテーステラ』の中で無限に広がっている宇宙を、主人公が一人で彷徨い続けるシーンがあった(だいぶ昔に観たのでもしかしたら似た題材の『グラビティ』だったかもしれない🙏)。燃料が切れた以上推進力を失い、叫ぼうとしても何も聞こえない「無の空間」は切ない。

このブログもそのような空間を走行していた時期があった。「数字のフィードバック」だけを頼りに先に進み、行き詰まっては挫折し、ブログを完全停止にした時期もあった。再開のきっかけは、やはりどうしても、何か書きたい気持ちが抑えられなかったからだ。

「書くことは自分を知ることだ」と『僕だけのいない街』に八代学がそう書いていた。何か自分の中でまだもやもやした「課題」を見つけ、書き出す工程で納得の行く結論に導かれることがどれだけ爽快なことか、だったらSEOやらSNSなんざ気にしなくだっていいじゃないか?次の何万クリックを目指す記事よりも、自分が好きなものを書けばいいじゃないか?

「検測エンジンでの評価=人間が読みたいもの」とは違うし、クリックウィンを求めるネット民衆のマインドセットが変わらない以上、いくらマシンとそのアルゴリズムが進化したとしても、決して全ての人間の意思を反映することはできない。

ので、マシンの評価を無駄に意識して、自分の文章を妥協したり、挫折したりするのは本末転倒だと思う。自己満足に過ぎないかもしれないが、自分の中の「内なる声」に耳を傾き、それを引っ張り出し、再構築し、発信し続けることにきっと意味はある。「どんな髭剃りにも哲学がある」のように。読者はそのうちきっと集まる。

8年間ブログをやってきて、今更自分らしい文章のフォーマットを探り始めたところの一編だった。

2017年07月23日(日) Writing