2017年9月17日

電車の中の数多な広告の中で、宝物探しのように自分にささるものを意識的に集め始めている。収穫数はなかなか伸びないが、厳選した3つをひとまず紹介したいと思う。

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「条件は今よりいい会社。以上。」

DODAのこの転職広告を初めて見たときは素直にグッドジョブだと思った。数ある転職会社の広告の中で、ずば抜けてユーザー目線ではないだろうか。

キャリアアップもいいけど、
給料とか、プライベートとか、
大切だから。
条件は今よりいい会社。
以上。

結局のところ、これが一番シンプルで、みんなが結果として求めていることとじゃないかな?

今後のキャリアパス、情熱でやり遂げたいこと、そんな真面目で勤勉な人はいるにはいるが、ほとんどの人(特に就職したばかりの20代前半)はまだ自分のことをよく理解していないかもしれないし、難しいことを提示してもうまく回答できないかもしれない。

その中でせめてもの、譲りたくないものをこの広告は掴み、うまくキャッチフレーズにできたと思う。なかなか良い。

「いい成績ほど、母には内緒にしてた」

いい成績とったら真っ先に親に教えて、ご褒美をもらおうとしていた学生時代の私である。この通常の思考ルートと逆行する「ギャップ」がすごい。続きが気になって仕方がない。次の展開が知りたくなる。

ちなみに全文は以下となる

いい成績ほど、母には内緒にしてた

テストで満点なんかとったら、
母はきっと喜ぶだろう。

だけど、
それが母を苦しめることを、
私は知っている。

でもね、
交通事故で父を亡くして
進学をあきらめようとしてたのは、
私の方だった。

~交通遺児育英会の中吊り広告より~

『ワンランク上の〇〇』

当初(数年前かな)初めてこの言葉に出会ったときは、賢い!と衝撃を受けた。ただその高い汎用性と移植性によって、もはや街中に濫用されているクリシェとなってしまっているが… 本当に残念。

ワンランク上の旅
ワンランク上のホテル
ワンランク上の〇〇

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ワンランク上のサービスを享受するには、当然さらにお金を要するもので、それが商売の狙いでもある。極めてシンプル理屈なのに、万人に共通するある「属性」を賢く、巧妙に包んでいる。それは「ランク」の言葉自体にひもづく「階級感」だと私は思う。

「社会的階級」を登る辛さ、必要とされる才能と運気、これらを全て置き去り、「ワンランク上」のサービスを平等に味わうことができる、そう思わせてしまう。あたかもそのランクに自分は君臨したように、潜在意識への報酬と心理的満足度を最大限に強調し、要する代価(さらなる金銭)を最小限——無に等しい——に抑えた効果があると感じた。


車内広告のみならず、あらゆる商用ポスター広告による視覚への暴力は避けようがないが、その分、クリエーティブなものに出会った時の反動も大きい。それらは読み手に清新な風を吹き込んでくれるから、しばし宝探し続けそう。

2017年9月 4日 #book

村上春樹のノンフィクションは読んだことがあって、その独特の文体に日本語の感度が刷新された(惹かれたとも言えるだろう)。『騎士団長殺し』は初めて読んだ彼の小説で、感想といえば、ブラックコーヒーを頼んだのに中途半端にミルクが混ざっていて、どちらとも言えない味。豆はトップクラスなのに、若干残念な気持ち。

具体的に分析するには、とりあえず文章力とストーリーの構成の二つの側面に分けないといけない気がする。

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文章力は言うまでもない。自分好みの絶品の「豆」の味。前に読んだ『職業としての小説家』と一貫した筆風、コンテキストがフィクションに切り替え、人間の心理とか細かい物事の関連付けや比喩などは大変楽しめた。

ただ問題はストーリーにある(あくまで個人的な感想として)。「こんなの期待してない・・!」というのが本音。「こんなの」というのはつまりその「霊的な」イデアのこと——いつでも自由に現れ、主人公にしか姿を見せず、その姿かたちも自由自在に変換でき、あえてタイトルの騎士団長の容姿を借用していて、論理的に説明のつかない(詳しく説明したくもない著者の意図も含めて)その存在が、予想外だった。

サイエンスフィクションを読むつもりでこの本を選んだわけではないし、むしろちゃんとしたサイエンスフィクションなら何かしらその背景や世界観と成り行きを読者にきちんと教えるはずだけどね。単純に「村上春樹の小説の世界」を「初見」したものとして驚いた、この「不親切さ」に。

私自身、何の霊体験もなく、ごつ普通に生きてきたので、本の中に現れるこのわけのわからない「霊的なもの」(失礼)により、物語が変わり、実世界に影響を与えたようでなかったような、どう解釈すればいいかを悩んでいた。果たして主人公のその「神秘な国」への旅、あの地底の暗い横穴をくくり抜いたことにどんな意味があったのか、それが何で普通の人間世界の一室に閉じ込められた少女を救ったのか、関連付けがなかなかできなかった。そして著者にはそれを説明しようという姿勢もなく、理屈と論理的な「輪」を閉じることができなかった。もしかしたらこれは二週、三週してやっと線が繋がる設定かもしれないが、この長編をもう一回読もうとは思わない(少なくとも今は)。

絵に喩えるのなら、その技術で肖像画でも風景でも写実的に描けば素晴らしい絵になるのに、理解に難しい抽象画ができあがったイメージだ。それ好みのグループには受けられるかもしれないが、大衆向けとは言い難い。

もしかしたら、『職業としての小説家』で書かれたように、「小説が書けるかもしれない」と悟った時の著者の体験をこの小説で再現したかったのかもしれない。

それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした…平たく言えば、「ある日とつぜん何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。(42ページ)


少し間を開いてからはこう考えるようになった。あれをある種「自分の体験したこと」にすれば何となく一つの決着にたどり着けそうな気がしてきた。

この第一人称で書かれた「私」を自分のことに入れ替わり、「私が妻と別れて、山奥に一人で数ヶ月住んでいて、私に向けて鳴らされている鈴の音を拾い、謎めいた穴を開いて、騎士団長のイデアを解放し、やがてはやらないといけないことをこなし、(一見どこでどうつながっているかはわからないが)、自分の起こした行動できっとあの少女は救われた、そうしなければ危なかっただろう」と、ストーリーに何の「調味料」も加えず、そのまま「自分」という容れ物に入れてみたら、釈然とした。そういう世界もありえるかもしれない、そういう不可解なことはあってもいいかもしれない。人が強く何かを望めば、現実と非現実の境界線を動かせるかもしれない、と。

全ての伏線を回収しなくてもいい、少なくとも今はそうしなくてもいい。頭の回転と連想が追いついてないのは仕方ない。分からなければならないものでもない。いつか自分で悟るか(その見込みは全くない)、誰か詳しい人に説明されるか(自分からは聞かないだろう)、流れに任せよう。


余談その一

この肖像画を書く絵描きの主人公の仕事ぶりもなかなか面白い。

生計のために肖像画を書くようになったが、それなりに自分の流儀のようなものを貫いている。依頼を受けてからは依頼主と面談して、その人の光るものを見つけ、(脳内で)スケッチを何枚描いて輪郭を捉え、キャンバスに荒っぽい「骨格」を落としてからはスツールに座ってただじっと絵を眺め、作品の「訴え」に耳を澄ませ、寝かせて自然に膨らませ、「今日はここまででいい」と言ってあっさり上がるワークフローを、具体的に、ありありと再現した。アーティストのみならず、クリエイターの方々ならどこかで共鳴できるところは絶対あるだろう。

例えばこのブログでの記事も似た過程を得て生まれる:あるトピックの種を掴み、スケッチして大まかな構成を練り、書き出したドラフトを眺め、繰り返す編集で肉付けしては贅肉を削ぎ落とし、最後にやっと公開される。(収入にはつながらないけど)

余談その二

この本は知り合いの先生から借りたもので、その先生は村上春樹の小説とエッセイを通読している。その時の会話がこんな感じだった。

「先生、この『騎士団長殺し』はどうでしたが」
「ん。。イマイチだったかな」
「そうですか、ちょうど本屋で見かけて、買って夏休みの時に読もうと思ったんですけど」
「貸してあげるよ」
「あ大丈夫ですよ、どうせ買おうと思って」
「いやいや、買うほどではない」
「…」

「買うほどではない」、それが思いのほか響いている。ので、まだ自分で買いってはいない。

おまけ

207ページの内容を引用(男性にしか効かない質問)。

「こんなことをうかがうのは、失礼にあたるかもしれませんが、ひょっとして、奥さん以外の女性がどこかで、密かにあなたの子供をもうけているかもしれないという可能性について考えてみたことはありますか?」

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
2017年8月21日

去年履いてた短パンがこの夏にはきつくなり、デブ化の進み具合を痛感し、ジムに通いはじめている(何しろこういうのは人生初の体験である)。たっだ数日ではもちろん効果は出ない。それでもやり抜くためには、何かしら自分に言い聞かせの言葉が必要になってくる。

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“Every step is progress.”(一歩一歩がプログレスだ)

これは前の同僚からの口癖で、僕はずっと借用してきた。特に走る時などに、何回も脳内で再生ボタンを押している。言葉通り一歩走ればそれが結果に繋がると信じて。

しかしひたすら走ってもその「プログレス」がなかなか感じ取れない——痩せたと思えばそうかもしれないし、ただの気のせい、日々の誤差に過ぎないかもしれない。このままジムに通い続けるには、さらなる精神的な糧が必要になってきた。

(ここから先はややこしいことを書くことになる、少なくとも言葉的には。)

思いついたのがこのキーワード:「リバウンド」だ。


体重、運動、ダイエットなどのコンテキストにおいてはなんと人間の意に反するネガティヴな言葉。せっかく痩せたのに跳ね返したりするのは厄介のことだ、いうこともない。

今回はあえてその単語をそのコンテキストで違う意味で書いてみたい、バスケから借りて。

バスケにおいてのリバウンドといえば、スラムダンクだろう、と勝手に個人的な体験から決めつけさせていただく。

安西先生の名言を借りると、リバウンドの存在意義は「つまり-2点が消え、+2点のチャンスが生まれる」である。

スラムダンクリバウンドの意味、安西先生から

どうしても身体がだるくてジムに行く気がない時は、こう考えればいい。

家でゴロゴロ寝転ぶのは一目瞭然の-2点で、ジムに行くのは確実に+2点のチャンスを作ってくれる、すなわち4点分の働きってことだ!

これは他の何か新しいことや習慣に挑む時も適用できる。万里の長城は一日で作られてはない。レンガを敷くのはプログレスではあるが、万里の道のりは長い、そしてその進捗を感じ取るには、一つのレンガがあまりにも微量すぎて、途中で挫折しかねない。

その時にせいぜい自分への励ましの言葉として使ってみたい。

「すぐに勝たなくても、今はダッシュの気分じゃなくても、失点を防いで、確実に得点に繋がるためのリバウンド(チャンス)を取るに行くのだ!」、と。

2017年7月23日 #writing

誰に読まれたいのか——検索エンジンか、人間か

ライターとブロガーの鍛える筋肉について

ブログを新しく始めている人、真剣に取り組んでいる人、ブログで生計を立てている人、誰でも通る道であろうSEOと、それがどう書き手のモチベーションに影響するのか、いくつかの感想を伝えたいと思う。

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まずSEOとは「検索エンジン最適化」の略称で、グーグルのような検索結果の上位に自分のブログを載せるために、色々と工夫することである。どういうルールで一位と評価されるかは複雑でかつ企業秘密なので、細かな詳細は公開してないが、「いいブログ市民」になるためのガイドラインは出している。それがまたネット環境の進化と変化により年々更新していく。

人気のあるブログを見ると、冒頭に大きな写真を用いたり、サブタイトルをきちんととつけたりして、読みやすさを向上するのがある。ただ、SEOのことを意識し過ぎたものも存在して、例えば読み手が「脳死状態」でもこれだけは絶対見逃して欲しくない部分を、大げさな太字+大文字コンボにしたり、ハイライトの線を引いてくれたり違う色にしたり、インターナルリンクを多数使ったり、SNSへの投稿を(露骨に)誘導したりして、釣りタイトルや、釣り画像も濫用されるのがある。

情報溢れる時代で、人間が一つのWebページに与えられる「離脱するまでの猶予時間」は限りなく少なくて、目を惹かれる写真は効率的な対処法かもしれない。実際の内容と関連性がなくても、萌キャラの女の子を表紙にするだけで、ネットならより多くのクリックを、本屋ならより多い人の手にとってもらえるかもしれない。

「検索エンジンにインデックスされない、イコールインターネットに存在しない」」と、どこかで読んだのを思い出し、だからみんなが注力するわけだ。

もちろんデジタルだからこそ、リッチメディアのアドバンテージを駆使して、よりいい形に情報を整理し提供するのは全然ありだが、周りの環境を見る限り、少々行き過ぎた感はある。少なくとも同じ「文字」を扱い、「情報」を伝える同士のはずのネットを媒体とするブロガーと、紙を媒体とするライターの間では、鍛える「筋肉」が違うと確信した。


一つは、「人間という読み手への最適化」をする前に、「マーケティングとマシンへの最適化」を優先してしまっている点。

ライターの場合、小説の作者だろうが、企業のコピーライターだろうが、それの成果物はすなわち「文字の集合体」のみ。それだけで勝負するから、余計なものを入れる余地がない以上、自然に意識するのは読み手への最適化。

ブロガーの場合、コンテンツ以外ーーつまりSEOのためにーー力を入れすぎて、かえって全体が読みにくくなるのが問題。読みたい文字よりも「周辺のノイズ」がより目立って、ビジネス臭いを匂わせる。読者を意識して、読みやすさのためにブレイクを入れたり、サブタイトルをつけたり、ポイントを強調したりして、文章の構造に手を入れるのはウィンウィンのはずだが、その一線を超えた激しい「セールピーチ」は逆効果で、こっちは引いてしまう。


もうひとつは、ブロガーのモチベーションとフィードバックの問題。

何事も同じで、ブログを開設するのは簡単だが、続けるのは難しい。参入障壁が低い分、途中で脱落者も多い。要因は人それぞれだが、ここで特筆したいのは書き手にとってのフィードバックだ。

ブログのフィードバックってどうやって測るのか?一般的にはアクセス数やSNSへの拡散、金銭的には広告の収入などが考えられる。そのピラミットの頂点に立った人は、また初心者に向けて丁寧に「こうすればロケットのようにアクセス数が伸びるよ」的なものを書き、みんなを同じ方向へ導こうとする。

それはそれで知識の伝達にはなるが、その数字で測れる「頂点」を目指してこのブログの世界に入った人にとっては、敗北も同じく数字で残酷に、明確に測れる。

どんなに書いてもその「数字」が伸びないから、モチベーションが下がり、挫折し、やがて諦める。もちろん色々と試して自分に向いてないものは、綺麗さっぱり撤退するのも重要だが、中ではきっと書くこと自体が好きだが、「書いてて手応えがない、アクセスが少ない、誰もシェアしてくれないから私は書くのをやめる」、という人がいて、そのやめ方は一番残念なパターンだと思う。実に残念。

映画『インテーステラ』の中で無限に広がっている宇宙を、主人公が一人で彷徨い続けるシーンがあった(だいぶ昔に観たのでもしかしたら似た題材の『グラビティ』だったかもしれない🙏)。燃料が切れた以上推進力を失い、叫ぼうとしても何も聞こえない「無の空間」は切ない。

このブログもそのような空間を走行していた時期があった。「数字のフィードバック」だけを頼りに先に進み、行き詰まっては挫折し、ブログを完全停止にした時期もあった。再開のきっかけは、やはりどうしても、何か書きたい気持ちが抑えられなかったからだ。

「書くことは自分を知ることだ」と『僕だけのいない街』に八代学がそう書いていた。何か自分の中でまだもやもやした「課題」を見つけ、書き出す工程で納得の行く結論に導かれることがどれだけ爽快なことか、だったらSEOやらSNSなんざ気にしなくだっていいじゃないか?次の何万クリックを目指す記事よりも、自分が好きなものを書けばいいじゃないか?

「検測エンジンでの評価=人間が読みたいもの」とは違うし、クリックウィンを求めるネット民衆のマインドセットが変わらない以上、いくらマシンとそのアルゴリズムが進化したとしても、決して全ての人間の意思を反映することはできない。

ので、マシンの評価を無駄に意識して、自分の文章を妥協したり、挫折したりするのは本末転倒だと思う。自己満足に過ぎないかもしれないが、自分の中の「内なる声」に耳を傾き、それを引っ張り出し、再構築し、発信し続けることにきっと意味はある。「どんな髭剃りにも哲学がある」のように。読者はそのうちきっと集まる。

8年間ブログをやってきて、今更自分らしい文章のフォーマットを探り始めたところの一編だった。

2017年7月22日 #consumer

ポイントカードだらけ

「当店のポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「今すぐ作れますがいかがなさいますか?」
「結構です」

ポイントカードほどめんどいものはないと思う。
計算してみれば大して割引にならないのに、
忘れた時の精神的ダメージが大きい。

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・店ごとに独自のポイントカードがある
・いちいち財布のスペースがとられる
・あまり利用しないところだと、ポイントが使える閾値までそもそも到達しない
・「あと3回で500円の割引」と釣られ、行く予定もないのに行ってしまったりして、自分の行動パターンがたかがのポイントに変えられるのが悔しい

などなどの理由でポイントカードは持たなくなった。


逆にどうすれば消費者に好まれるのか、少し考えてみた。

イギリスのブリストルで一つのカフェに行った時のことを思い出した。
Friska The Eyeという店ではスマホアプリ(ロイヤリティアプリという)を出していて、ダウンロードすれば支払い、ポイント、新着情報などが全てそのアプリを通して完結する仕組みだ。

プリペイド式だけど、一回切りで後の支払いが楽になるし、物理的にスペース取らないし、キャンペンコードで一杯コーヒーを無料など、消費者としては確かに利便性の高いものだ。

店側でも新商品をアプリを通して宣伝できるし、混雑時スムーズに会計ができて少しは楽になる。

もし、行きつけのカフェにこういうのができたら、紙のポイントカードよりかはいいかなと思った。


ただ全部の店がまた独自のアプリを開発するのもコストがかかるし、消費者のスマホのスペースが取られるのもな・・ヴァーチャルとは言え、「ポイントアプリ」で携帯を充満するのもまた原点の問題に戻ってしまう。

そしたらやはり何か「共通のインターフェース」が必要になってくるかも。技術は既に揃っているけど、後は「普及力」が追いついてくるかどうかが鍵になると思う。AppleとGoogleの巨人達の影響力と実行力でこの辺は変わるだろうか?

2017年3月18日 #book

本屋で冒頭の数ページを読んで買うことを決めた。開幕のシーンがよかった。惹かれたっていうか、刺されたって言うか。

わざわざ早朝に一人で車を運転してスキー場にやってきて、パウダーゾーンを狙う主人公、そこに自撮りに難航していた一人の女性スノーボーダーに気づき、シャッターを押してあげることにした。定番の「念のため、もう一枚」という時に、「ちょっと待って」と言われ、その女性はゴーグルをヘルメットの上にずらし、フェイスマスクを下ろした。元々覆われた顔が現れ、主人公はどきっとしたわけだ。その後、女性は密集した木々の間を、雪煙を上げながら滑り抜けていく。あっという間に引き離され、見失ってしまった。残されたのは誘えばよかったと後悔した我が主人公…

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このオープニングは結構好きだな。もし最初から顔が見えてしまったら、また話は全然違うテーストになるだろう。この全く期待感のない、無防備の状態で急に好みのタイプの女性が実は目の前にいたという「発見」に、男は弱いかもしれない。

ストーリーの舞台はスキー場だが、僕みたいな全くスキーやスケボーの経験がない人間にも十分楽しめた。「パウダーラン」とか、「未圧雪の上級者バーン」とかの専門用語も知らないし、「孫悟空の筋斗雲に乗っているような浮遊感と疾走感」とかも体験したことがないけど(体験したいとは言ってない)。

人を殺してないのに訳あって逃げないといけない、警察なのに訳あってバッジを見せて堂々と捜査することができない、こういう巧妙な場面を作り出したことがすごいなと感心した。

構成上二人の大学生とかれらを追う二名の刑事、それにスキー場の人達という、大きく三つのグループに別れてて、章ごとに交互にそれぞれのストーリーが書かれてる。誰が主人公という設定はないと言ったほうが正しい。タイムリミットがある中、それぞれが自分の立場から真実を求めていくのが、とにかく面白かった。ただ登場人物が多いせいか、キャラが成り立ってない、存在感が薄いなどの印象もある。


全体的には読みやすかったけど、読み終えて少し吟味すると、やはり違和感を感じた部分があった。あくまで個人の感想なんで、別に批判したいわけではないので、軽く読み流す程度で読んでください。(ネタバレあり)

一番大きな違和感は「女神」ーーすなわちアリバイを証明してくれる、シャッターを押してあげたその女性ーーの正体が最終的にわかった時、アンチクライマックスな気がした。それは読者が中盤に「あ、この人か!」と簡単に予測できないように、配慮したかもしれないが、そもそも「女神」本人に対してあまり書けないから、「女神探し」というメインストーリーの最後は、「あまり知らない人が女神だった」、のような後味の悪いエンディングになってしまったのが、個人的にすごい残念だと思う。

この三日後には花嫁になる人、たまに登場するときのリンとした話ぶり、落ち着いた雰囲気、スキー場のために身を削るという人物像と、あのミステリアスの「女神」ーーハート形に見える山を背景にピースサインを出して自撮り、主人公に「バッチリです」と言って指で輪を作るという仕草、この落差がどうしても受け入れがたい。第1章で「誘えばワンチャンあり」の雰囲気を出したのがよくなかったかもしれない。

ぶっちゃけ、「女神」より旅館の女将さんや妹の友人の千晶の女性キャラクター達のほうが、もっと前に出ているという矛盾があるのでは、と思った。せっかく最後に「女神」を見つけたのに、物足りない感が半端なかった・・・

あとは刑事の上司の南原があまりにも単調すぎて、普段はうるさいけど実は最後に部下をかばう立派な男かも、とちょっと期待したんだけど、結局ただのステレオタイプの嫌な人で終わった。


後半色々と文句をいったふうに書いてるが、小説自体は悪いとは言ってない(笑)。こう言った「気づき」も読書のワンセッションだと思って、整理して書き出した次第 😄

2016年12月 2日 #book

これは伊藤計劃の二作目の作品である。前作「虐殺器官」の続編とも言えるけど、読んでなくても本作は十分楽しめる。先端技術を使った戦闘シーンはない分、世界の壮絶さとエンディングの吟味具合は最高だ。

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世界観

冒頭を読んで少し心配してた。「ハーモニー」というタイトル、三人の女の子、大人になりたくないと社会に文句を言う始まりから、もしかしたらそこらへんのアニメと似たような平和ボケのストーリーかと思ったら、20〜30ページ読んでどこか「安心」した。「真綿で首を絞めるような、強権的な優しさに息詰まる世界」、じわじわとその息苦しい世界観が伝わってくる。

時代は「大災禍(ザ・メイルストロム)」の後、世界中に混沌と騒動が起きた後、ようやく平和を手に入れた人類は、二度とこんな大惨事が起こらないように肉体と精神の極限なハーモニーを求めて、「生命主義」の端までたどり着いた。医療技術の進歩で人間は事故と老い以外は死なないようになり、その対価に成人になると体内にWatchMeというものを入れられ、身体の状態データからあらゆるプライバシーのデータまで常に政府の次形態である「生府」に送り続ける必要がある。

つまり自分の行った場所、聞いた話、見た景色全てが監視されている。今の常識から見ればありえない話だが、それでもそういうプライバシー侵害の心配を遥かに上回るように、社会は平和と慈愛に満ちいるから誰も気にはしない。「心的外傷性視覚情報取扱資格」、映画を見るには、暴力的な資格情報に接するには、法的に定められたこんな資格が必要になってくる。人は喧嘩や紛争すること自体忘れているかもしれない。

面白かったのが、「プライバシー」という単語はその世界で「やらしい」というニュアンスに進化してしまった。自分の年齢、職業、社会的評価点数など、ほとんどの情報が公開している以上、唯一残されているのは、もはやセックスする行為のみ。

誰もが優しくて、健康で、人思いの理想郷とは相反に、妙に子供たちの自殺率は上昇する一方。「優しさは、対価としての優しさを要求する」。子供はこの重たる「空気」を鋭く感知し、憂鬱になり、追い込まれた末、自ら命を絶つことになってしまう。主人公もそれを図ろうとした大勢の子供の中の一人。

主人公の執念

霧慧トァンは螺旋監視官という生命主義の中で最もエリートの職に就いていながら、職権濫用までしてタバコや酒を手に入れようとしている(これらのグッズは生命最高主義への一番な冒涜で、で完全に貶されるものとなり、通常ルートでは入手できなくなっている)。その執念は13年前の親友の死から始まっていた:一緒に自殺することで誇り高く生命主義に対して皮肉で致命的な一撃を加えようとしたが、親友をなくし、自分だけが生き残った。「なんで私は死ねなかった」と、自分で自分を苦しめ、この無念から物語はどんどん展開する。

そして世界的な「大事件」が起きる。それを読んだ時の衝撃はよく覚えている。不意打ちを食らった後は、ひやひやしてた。背筋に冷たい刃物を「ぐさっ」と刺し込まれたたような感触だった。文字だけでここまで伝わるものかと感心する。

醍醐味

一番の醍醐味はやはり「意志とは」、「進化とは」の哲学的な議論だ。テクノロジーが極めて発達した世界で、論理や自我の矛盾はより対立となり明確になる。これこそがSFの醍醐味で、伊藤計劃の得手だと思う。

何を持って「私は私である」と言えるだろうか?こう質問されて脳内で何かの答えを探ろうとして、「とある声」が勝手に鳴るだろう。この「内なる声」ー街を歩いても、ごはんを食べても、人と社交しても、このブログを書いている最中も、これを読んでいるこの瞬間も、常に脳内を迂回するこの声ーこの声こそが「私の意志」なのか?この「声」をなくしたら「意志の消滅」と言えるのか?その時人間はどうなるのか?こんな質問と議論が物語の中に潜んでいる。

数日後、妙に前友人と飲んだ時のことを思い出した。二次会の時にその友人は普通に喋って普通に飲んでいたのに、次の日には全く覚えてないと言ってた。途中から酔って記憶が飛んだらしい。つまりその間は「自動運転モード」に入ってるってことだ。その時の振る舞いは、果たして本人の意志と言えるだろうか、それともただ空白なのか?もし一瞬全世界が「自動運転モード」に入ったらどうなるんだろう?

この質問の余韻に浸って僕はもう一回本の世界に飛び込んだ。


諸々雑談

この本は2008年に書かれたらしい。今から8年前。時代の先読みがすごかった。ARとVRの世界、プライバシーの公開と漏洩、近年の話題が作品に先越されたような感じだった。

少し残念だと思うのが、章と章の繋ぎが弱いと感じた。せっかく章の終わりにフルスピードで突っ走ったレーシングカーが、次の章ではまたゼロからゆっくりとスタートラインを切るような感じ。

第一人称へのこだわりは最後のインテビューに掲載されている。一人称と三人称の優劣は村上春樹の「職業としての小説家」にも触れてあって、作者が何を評価してその手法を選んだか、これは興味津々。

色々面白い一行知識もある。例えばナチスとヒトラー

ヒトラーの母親は乳癌で死んだ。医者はユダヤ人だった。だからヒトラーのユダヤ人憎悪はそこに端を発している。ホロコーストはヒトラーの母親の乳房から生まれたというわけだ。右か左かは知らんが。
(ページ214)

映画もあるので、小説を読んでから観るとよりその世界の肉付けができるからおすすめ。ただし映画では百合になっていて、原作とだいぶ味が変わるから気持ち悪かった。「親友で同志でカリスマの存在」を失くした痛みと「ただ」好きな人を失くした感情とは、レイヤーがそもそも違うから。

瑕疵は多少あるけど、全体としては十分よかった。これで伊藤計劃の三部作のうち二つは読んだから、残りの「屍者の帝国」も楽しみだ。

2016年11月24日

深夜食堂

今日は珍しく人と喋りたくなった

一日が終わり、絡みついてる何かをふるい落とすかのように、「深夜食堂」を観ると心が落ち着いて、また明日も頑張っていける気がする。見るのが惜しいくらいハマってる。

まったくタイトルに騙されてた。ただ深夜に何かのグルメを紹介する番組かと思ってた。だからずっと抵抗があって遠下がっていた。「人は見かけによらぬもの」というのは、これにも適用できるんだな。

さて、これはどんなドラマなのか。どういう人が夜12時以降から唐揚げや豚汁を食べるんだろう。最初は不思議で仕方なかった。

新宿の娯楽街の近くにあるこの店に通ってる人たちはちょっとだけ尋常じゃない普通の人だ。彼ら彼女らにはそれぞれストーリーがある。背負っているものがある。この深夜食堂があらゆる背景の人たちの交差点となり、アジトとなり、心を温めるところとなったのだ。

みんな何を食べるって?それが醍醐味だ。

夜が静まり、偽装と仮装を下ろし、すっぴんの我に戻った時に食すこの一品は、フランス料理でもない、A5和牛でもない、極めてシンプルなものだ。それはお袋の味、家庭の味、片思いの味、未練の味、自分のの人生の味そのものだ。大事な人との思い出が食べ物とリンクして蘇る。

もしその店に行けたら何を注文するんだろう。

2016年11月11日 #book

本「猿の見る夢」感想

汚くてもそれが人間

59歳の薄井という主人公は自分勝手、優柔不断、冷酷で芯のない、女と金の欲望に場しのぎのことしかできない、そういう人。家庭に居場所がないと言い訳に愛人を作り、愛人とうまくいかない時はまた他の恋人を探し、それがだめな時は「やっぱり家が一番」といって転がる人。

なのにこの本を手に取って一気に読めたのは不思議だ。なんとなく共感できるとこがあって、なんとなくこんな男の最後を見届けたいという高みの見物みたいの心境もあった。そして読みながらだんだん恐怖を覚えた。それは物語のつなぎ役の神秘で気持ち悪い占い師によるものでもあり、主人公の遭遇に共感と共鳴することで自分もいつかそうなるのではないかと、薄々不安を感じた部分もある。三人称で書かれたのはあえてあまり感情移入せずに客観的に見て欲しかという意図があったそうだが、妙に惹かれるところは未だによくわからない。

最初の拗ねるところが薄井の人間性をよく表した。キャリア上もっとも運命を決めるチャンスかもしれない会長との極秘ミーティングを、愛人と先約があるということで早めに終わらせ(こういう面では評価できるかもしれない)、行きつけのレストランに時間通りに行ったら逆に愛人が1時間も遅刻する、しかも相手が時間と場所を決めたのに…店内は若者のグループが合コンでうるさくいし、こっちは常連なのにいつもの席に座らせてくれない、などなどで物事がどんどん都合の悪い方向に転び、やがて拗ねて自爆する羽目になる。怒ることに至らない「単品」の小さな挫折が「セット」で来ると、我を失う。ほとんどの人はそうじゃないのかな。

愛人関係というと、毎週二回会って料理とワインを飲んでセックスする、というルーティンを10年も続いている。平日に一回、週末に一回、全部仕事の接待やら飲み会やらの言い訳で家族をごまかして10年間。そして深夜前には絶対自宅に帰る、愛人宅では一切止まらないと、せめてもの家族への優先順位のケアというか、そういうところがある。。。何ことも長続くことに意味があるという観点からは、もうこの「若さ」と「継続さ」に感心するほかならない。

中盤に入ってからは薄井が自宅に帰った様子が書かれたが、まさに「犬以下」の待遇でちょっと同情したい気もあった。卵と鶏の問題かもしれない。家庭内に居場所がないから外で快楽を求めているのか、外で快楽を求めているから家で冷遇されるのか。その悪の循環が全てを壊す。

そういう仕事、家庭、親族、そして女性関係(これは自己責任といえばごもっともだが)からのストレスは分からなくもない。不倫がバレて家から追い出されて、一人になってからの好き放題やり放題の開放感から間も無くまた寂しくなり、「男は安定な家庭があるからこそ一人になりたい」と悟った主人公。誰しも一つや二つ共感できることはあると思う、だからこそ怖いのだ。もしも一歩ずつ間違えたら、そういう滑稽で狡猾で卑劣な人間になるのではないかと。

一箇所だけ著者の意見が文中で表したと思う。

男は女に縛られると、自由が欲しくなって飛び出し、自由を得た途端にまた女が欲しくなる。馬鹿な動物なのだ。

(自分も含めて)ほとんどの男性は認めざる終えないだろう、この矛盾でどうしようもない内なる感情を。

一番不思議だったのが、一回目読んだ時はひたすら主人公のことを見下してた。何でこんな人間失格のストーリーを読むんだ、と疑問に思った瞬間もあった。しかしもう一回パラパラと読み直したら、何となく著者が表紙て書いた「これまでで一番愛おしい男を描いた」の意味がわかってきた気がした。思わず女を比べた時の罪悪感、別れた時の涙、貶された方を庇いたい気持ち、結局誰にも愛されてない時の挫折など、いかにも人間らしい感情。もし、自分の過去を他人のストーリーのようにもう一回客観的に読み直せるんだったら、同じく滑稽で狡猾で卑劣に見えるのだろうか。心のどこかにそういうピエロが潜んでいるのではないか。

最後のエンディングは個人的にどうしても腑に落ちなくて薄気味悪かった。「雑な仕事」としか思えてなくて、ようやく映画がクライマックスになろうとした瞬間、停電で強制解散された感が半端なかった。

誰が読むべきか?読むことをすすめするのか?

ん。。難しい。全体的に読みやすかったし、59歳という、失礼だけど、もうおじいちゃんのはずの人の具体的な悩みや挫折を鮮明に伝えたし、各登場人物とのリアルに汚い、見苦しいディテールまで見えるのはよかった。各自の人生経験とステージによって得られるものは絶対あるだろう。

若かった時はよく「定年退職後にやりたいこと」を友達と妄想してた。まるで、老後は仕事のストレスから解放され、それこそ人生を楽しめる時期かと勝手に心のどこかで思ってた。そんな都合のいいことは絶対ないだろうと、本作を読んでもう一回考えてみた。16歳には16歳の悩みがあり、59歳には59歳の悩みがある。何かの「ステージ」に物理的にたどり着いたといって全部が望む方向に転ぶことは絶対ありえない。だからやりたいことがあれば「今」だと、ちょっと意識高いことを言ってみたくなる。

最後にいくつか主人公の「悟り」を引用してこの記事を終了し、この本にもちゃんとありがとうとさよならを伝えたい。

自分の会社であれば、人はいくらでも働くり問題は、他人にその熱意をどう共有させるかだ。創業者には、雇われた者の気持ちは永遠にわからないだろう。
P16

結婚してからは、一人になりたくてもなれない状態が続いていた。美優樹(注:薄井の愛人)と付き合うようになって、美優樹の部屋、という会社と自宅との中間点の居場所が出来た。美優樹との付き合いが長くなったのも、結局はそういう居場所が欲しかったからではないかと気づく…会社で働き、美優樹の部屋で解放され、家に戻って会社の準備をする。その繰り返しの日々だった。
P328

本当の独りになった途端、独り身を楽しめるのは、家族がいるからこその贅沢だとようやくわかった気がする。
P392

2016年10月 1日 #book

9・11以降の世界、テロ対策としてID認証が生活のあらゆるところに浸透している。第一人称で書かれた「僕」という人間はアメリカ特殊部隊で暗殺屋をやっている。高度に発達したバイオテクノロジーを武器にして、虐殺が氾濫している様々な戦場へ派遣され、キーパーソンを暗殺し続けても世界は一向に平和にならない。唯一の手がかりはジョン・ポールという男、彼がいるところは常に大量殺戮が起きる、暗殺リストの常連になっているが、「僕」がその現場に駆けつけた時はもうそこにジョン・ポールはいない、まるでゴーストのような存在。彼の目的はなんなのか、どんな手段で虐殺を引き起こしたのか、「僕」はジョン・ポールを暗殺できるのか。これがメインストーリーとなるが、この本の素晴らしさはこれだけではない。

最初に惹かれたのは文章の中のスパイスだ。戦場や虐殺の現場とその死体の描写がやたらとリアルで、「気持ち悪い」よりかは戦争の恐怖を覚えさせる。村の広場に掘られた穴の中で死体が焼かれ、筋肉が収縮し髪の毛から発散した臭い匂い、何もかも臨場感がやばかった。平面上での文字でここまで没入感をもたらすとは感心した、まるでVRメガネでそこに立ち、さらに臭覚まで再現されたような感覚だ。

主人公達は戦場へ出発する前にカウンセリングを行う。そこで脳内マスキングというのを受ける、要は戦場でいちいち子供兵を殺す時の「余計」な論理的思考を「排除」するオペレーションだ。事後にPTSDにならないよう、事前に予防ワクチンを打っておくようなものだ。それにしても主人公は常に殺人について考える。国家の命令だから、良心の部分をテクノロジーで麻痺したから、平然と人の命を取ることに何の罪悪感も感じない自分に悩まされる。良心とは何か、個体の進化の過程においてそれは邪魔者なのか、遺伝された「人間らしさ」の一つなのか、真の自由を妨げるものなのか、主人公が一人で考えたり、他人との会話で議論されたりして、読者に咀嚼してもらうところがよかった。

もう一つ特筆したいのは家庭問題だ。主人公が幼い時、お父さんが自殺した。自分の親が自殺すると、どれだけ深刻な影響をその家庭に及ぼすか、これで少しは覗き見できる。彼もいつかお父さんのように「消える」のではないか、と心配してるように母からは常に用心深く見られてた。とにかく「僕は消えないよ」を伝えるのが彼の前半の人生においての第一の優先事項で、周りに迷惑かけない、静かで大人しく人生を過ごすことに注力してきたが、そのような生活に疲れてエキストリームに、就職先を軍にしてしまった。本当に親というは生死問わず生きている子供の人生分影響を与えることだな。

世界各地の戦場に足を運び、ひたすら命令通りに暗殺という「業務」をこなす中、ある日自分のお母さんが交通事故にあった。意識不明になりドクターからは延命装備を外すか否かという問いに、主人公は初めて自分の選択で人の生死、しかも生身の自分の母の、を決めなくてはならなくなった。医学が進化し脳の研究も十分発達してかえって悩ましいことに、意識あり・なしの定義が医学的にも社会的にもグレーゾーンになっていて、今病院のベッドの上に横になっているは自分のお母さんなのか、骨と肉と筋肉で出来上がった「塊」なのか、明確な定義がないことだ。どれぐらい脳が機能すればそれを「人」と呼べるのか、魂はあるのか、自分はお母さんをこのまま生かすべきなのかそれとも・・・その葛藤がまたいつも主人公を苦しめる。

もちろんSFの要素も盛りたくさん仕込んである、十分読み応えはある。自動出血措置を行うスマートスーツ、指紋認証がついてる銃、カモフラージュ機能で周りの環境にとじこむ迷彩服、自動分解できる侵入鞘、ナノディスプレイになる目薬、痛さは「知る」けど痛みを「感じない」痛覚マスキングなど、今後映画が出来上がったらぜひそれらのテクノロジーを観てみたい。

全体の感想としては、まさにSFだからこそ、色々と厳しい問題を露わに表現できて、人間性についてシリアスに考えることができたと思う。