kinopyo blog


もの書きの引き出し(からのちょい出し)

ポイントカードは持たない派

ポイントカードだらけ

「当店のポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「今すぐ作れますがいかがなさいますか?」
「結構です」

ポイントカードほどめんどいものはないと思う。
計算してみれば大して割引にならないのに、
忘れた時の精神的ダメージが大きい。

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・店ごとに独自のポイントカードがある
・いちいち財布のスペースがとられる
・あまり利用しないところだと、ポイントが使える閾値までそもそも到達しない
・「あと3回で500円の割引」と釣られ、行く予定もないのに行ってしまったりして、自分の行動パターンがたかがのポイントに変えられるのが悔しい

などなどの理由でポイントカードは持たなくなった。


逆にどうすれば消費者に好まれるのか、少し考えてみた。

イギリスのブリストルで一つのカフェに行った時のことを思い出した。
Friska The Eyeという店ではスマホアプリ(ロイヤリティアプリという)を出していて、ダウンロードすれば支払い、ポイント、新着情報などが全てそのアプリを通して完結する仕組みだ。

プリペイド式だけど、一回切りで後の支払いが楽になるし、物理的にスペース取らないし、キャンペンコードで一杯コーヒーを無料など、消費者としては確かに利便性の高いものだ。

店側でも新商品をアプリを通して宣伝できるし、混雑時スムーズに会計ができて少しは楽になる。

もし、行きつけのカフェにこういうのができたら、紙のポイントカードよりかはいいかなと思った。


ただ全部の店がまた独自のアプリを開発するのもコストがかかるし、消費者のスマホのスペースが取られるのもな・・ヴァーチャルとは言え、「ポイントアプリ」で携帯を充満するのもまた原点の問題に戻ってしまう。

そしたらやはり何か「共通のインターフェース」が必要になってくるかも。技術は既に揃っているけど、後は「普及力」が追いついてくるかどうかが鍵になると思う。AppleとGoogleの巨人達の影響力と実行力でこの辺は変わるだろうか?

2017年07月22日(土) Consumer

本:「雪煙チェイス」、東野圭吾

本屋で冒頭の数ページを読んで買うことを決めた。開幕のシーンがよかった。惹かれたっていうか、刺されたって言うか。

わざわざ早朝に一人で車を運転してスキー場にやってきて、パウダーゾーンを狙う主人公、そこに自撮りに難航していた一人の女性スノーボーダーに気づき、シャッターを押してあげることにした。定番の「念のため、もう一枚」という時に、「ちょっと待って」と言われ、その女性はゴーグルをヘルメットの上にずらし、フェイスマスクを下ろした。元々覆われた顔が現れ、主人公はどきっとしたわけだ。その後、女性は密集した木々の間を、雪煙を上げながら滑り抜けていく。あっという間に引き離され、見失ってしまった。残されたのは誘えばよかったと後悔した我が主人公…

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このオープニングは結構好きだな。もし最初から顔が見えてしまったら、また話は全然違うテーストになるだろう。この全く期待感のない、無防備の状態で急に好みのタイプの女性が実は目の前にいたという「発見」に、男は弱いかもしれない。

ストーリーの舞台はスキー場だが、僕みたいな全くスキーやスケボーの経験がない人間にも十分楽しめた。「パウダーラン」とか、「未圧雪の上級者バーン」とかの専門用語も知らないし、「孫悟空の筋斗雲に乗っているような浮遊感と疾走感」とかも体験したことがないけど(体験したいとは言ってない)。

人を殺してないのに訳あって逃げないといけない、警察なのに訳あってバッジを見せて堂々と捜査することができない、こういう巧妙な場面を作り出したことがすごいなと感心した。

構成上二人の大学生とかれらを追う二名の刑事、それにスキー場の人達という、大きく三つのグループに別れてて、章ごとに交互にそれぞれのストーリーが書かれてる。誰が主人公という設定はないと言ったほうが正しい。タイムリミットがある中、それぞれが自分の立場から真実を求めていくのが、とにかく面白かった。ただ登場人物が多いせいか、キャラが成り立ってない、存在感が薄いなどの印象もある。


全体的には読みやすかったけど、読み終えて少し吟味すると、やはり違和感を感じた部分があった。あくまで個人の感想なんで、別に批判したいわけではないので、軽く読み流す程度で読んでください。(ネタバレあり)

一番大きな違和感は「女神」ーーすなわちアリバイを証明してくれる、シャッターを押してあげたその女性ーーの正体が最終的にわかった時、アンチクライマックスな気がした。それは読者が中盤に「あ、この人か!」と簡単に予測できないように、配慮したかもしれないが、そもそも「女神」本人に対してあまり書けないから、「女神探し」というメインストーリーの最後は、「あまり知らない人が女神だった」、のような後味の悪いエンディングになってしまったのが、個人的にすごい残念だと思う。

この三日後には花嫁になる人、たまに登場するときのリンとした話ぶり、落ち着いた雰囲気、スキー場のために身を削るという人物像と、あのミステリアスの「女神」ーーハート形に見える山を背景にピースサインを出して自撮り、主人公に「バッチリです」と言って指で輪を作るという仕草、この落差がどうしても受け入れがたい。第1章で「誘えばワンチャンあり」の雰囲気を出したのがよくなかったかもしれない。

ぶっちゃけ、「女神」より旅館の女将さんや妹の友人の千晶の女性キャラクター達のほうが、もっと前に出ているという矛盾があるのでは、と思った。せっかく最後に「女神」を見つけたのに、物足りない感が半端なかった・・・

あとは刑事の上司の南原があまりにも単調すぎて、普段はうるさいけど実は最後に部下をかばう立派な男かも、とちょっと期待したんだけど、結局ただのステレオタイプの嫌な人で終わった。


後半色々と文句をいったふうに書いてるが、小説自体は悪いとは言ってない(笑)。こう言った「気づき」も読書のワンセッションだと思って、整理して書き出した次第 😄

2017年03月18日(土) Book

本:「ハーモニー」、倒立したディストピア

これは伊藤計劃の二作目の作品である。前作「虐殺器官」の続編とも言えるけど、読んでなくても本作は十分楽しめる。先端技術を使った戦闘シーンはない分、世界の壮絶さとエンディングの吟味具合は最高だ。

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世界観

冒頭を読んで少し心配してた。「ハーモニー」というタイトル、三人の女の子、大人になりたくないと社会に文句を言う始まりから、もしかしたらそこらへんのアニメと似たような平和ボケのストーリーかと思ったら、20〜30ページ読んでどこか「安心」した。「真綿で首を絞めるような、強権的な優しさに息詰まる世界」、じわじわとその息苦しい世界観が伝わってくる。

時代は「大災禍(ザ・メイルストロム)」の後、世界中に混沌と騒動が起きた後、ようやく平和を手に入れた人類は、二度とこんな大惨事が起こらないように肉体と精神の極限なハーモニーを求めて、「生命主義」の端までたどり着いた。医療技術の進歩で人間は事故と老い以外は死なないようになり、その対価に成人になると体内にWatchMeというものを入れられ、身体の状態データからあらゆるプライバシーのデータまで常に政府の次形態である「生府」に送り続ける必要がある。

つまり自分の行った場所、聞いた話、見た景色全てが監視されている。今の常識から見ればありえない話だが、それでもそういうプライバシー侵害の心配を遥かに上回るように、社会は平和と慈愛に満ちいるから誰も気にはしない。「心的外傷性視覚情報取扱資格」、映画を見るには、暴力的な資格情報に接するには、法的に定められたこんな資格が必要になってくる。人は喧嘩や紛争すること自体忘れているかもしれない。

面白かったのが、「プライバシー」という単語はその世界で「やらしい」というニュアンスに進化してしまった。自分の年齢、職業、社会的評価点数など、ほとんどの情報が公開している以上、唯一残されているのは、もはやセックスする行為のみ。

誰もが優しくて、健康で、人思いの理想郷とは相反に、妙に子供たちの自殺率は上昇する一方。「優しさは、対価としての優しさを要求する」。子供はこの重たる「空気」を鋭く感知し、憂鬱になり、追い込まれた末、自ら命を絶つことになってしまう。主人公もそれを図ろうとした大勢の子供の中の一人。

主人公の執念

霧慧トァンは螺旋監視官という生命主義の中で最もエリートの職に就いていながら、職権濫用までしてタバコや酒を手に入れようとしている(これらのグッズは生命最高主義への一番な冒涜で、で完全に貶されるものとなり、通常ルートでは入手できなくなっている)。その執念は13年前の親友の死から始まっていた:一緒に自殺することで誇り高く生命主義に対して皮肉で致命的な一撃を加えようとしたが、親友をなくし、自分だけが生き残った。「なんで私は死ねなかった」と、自分で自分を苦しめ、この無念から物語はどんどん展開する。

そして世界的な「大事件」が起きる。それを読んだ時の衝撃はよく覚えている。不意打ちを食らった後は、ひやひやしてた。背筋に冷たい刃物を「ぐさっ」と刺し込まれたたような感触だった。文字だけでここまで伝わるものかと感心する。

醍醐味

一番の醍醐味はやはり「意志とは」、「進化とは」の哲学的な議論だ。テクノロジーが極めて発達した世界で、論理や自我の矛盾はより対立となり明確になる。これこそがSFの醍醐味で、伊藤計劃の得手だと思う。

何を持って「私は私である」と言えるだろうか?こう質問されて脳内で何かの答えを探ろうとして、「とある声」が勝手に鳴るだろう。この「内なる声」ー街を歩いても、ごはんを食べても、人と社交しても、このブログを書いている最中も、これを読んでいるこの瞬間も、常に脳内を迂回するこの声ーこの声こそが「私の意志」なのか?この「声」をなくしたら「意志の消滅」と言えるのか?その時人間はどうなるのか?こんな質問と議論が物語の中に潜んでいる。

数日後、妙に前友人と飲んだ時のことを思い出した。二次会の時にその友人は普通に喋って普通に飲んでいたのに、次の日には全く覚えてないと言ってた。途中から酔って記憶が飛んだらしい。つまりその間は「自動運転モード」に入ってるってことだ。その時の振る舞いは、果たして本人の意志と言えるだろうか、それともただ空白なのか?もし一瞬全世界が「自動運転モード」に入ったらどうなるんだろう?

この質問の余韻に浸って僕はもう一回本の世界に飛び込んだ。


諸々雑談

この本は2008年に書かれたらしい。今から8年前。時代の先読みがすごかった。ARとVRの世界、プライバシーの公開と漏洩、近年の話題が作品に先越されたような感じだった。

少し残念だと思うのが、章と章の繋ぎが弱いと感じた。せっかく章の終わりにフルスピードで突っ走ったレーシングカーが、次の章ではまたゼロからゆっくりとスタートラインを切るような感じ。

第一人称へのこだわりは最後のインテビューに掲載されている。一人称と三人称の優劣は村上春樹の「職業としての小説家」にも触れてあって、作者が何を評価してその手法を選んだか、これは興味津々。

色々面白い一行知識もある。例えばナチスとヒトラー

ヒトラーの母親は乳癌で死んだ。医者はユダヤ人だった。だからヒトラーのユダヤ人憎悪はそこに端を発している。ホロコーストはヒトラーの母親の乳房から生まれたというわけだ。右か左かは知らんが。
(ページ214)

映画もあるので、小説を読んでから観るとよりその世界の肉付けができるからおすすめ。ただし映画では百合になっていて、原作とだいぶ味が変わるから気持ち悪かった。「親友で同志でカリスマの存在」を失くした痛みと「ただ」好きな人を失くした感情とは、レイヤーがそもそも違うから。

瑕疵は多少あるけど、全体としては十分よかった。これで伊藤計劃の三部作のうち二つは読んだから、残りの「屍者の帝国」も楽しみだ。

2016年12月02日(金) Book

深夜食堂

今日は珍しく人と喋りたくなった

一日が終わり、絡みついてる何かをふるい落とすかのように、「深夜食堂」を観ると心が落ち着いて、また明日も頑張っていける気がする。見るのが惜しいくらいハマってる。

まったくタイトルに騙されてた。ただ深夜に何かのグルメを紹介する番組かと思ってた。だからずっと抵抗があって遠下がっていた。「人は見かけによらぬもの」というのは、これにも適用できるんだな。

さて、これはどんなドラマなのか。どういう人が夜12時以降から唐揚げや豚汁を食べるんだろう。最初は不思議で仕方なかった。

新宿の娯楽街の近くにあるこの店に通ってる人たちはちょっとだけ尋常じゃない普通の人だ。彼ら彼女らにはそれぞれストーリーがある。背負っているものがある。この深夜食堂があらゆる背景の人たちの交差点となり、アジトとなり、心を温めるところとなったのだ。

みんな何を食べるって?それが醍醐味だ。

夜が静まり、偽装と仮装を下ろし、すっぴんの我に戻った時に食すこの一品は、フランス料理でもない、A5和牛でもない、極めてシンプルなものだ。それはお袋の味、家庭の味、片思いの味、未練の味、自分のの人生の味そのものだ。大事な人との思い出が食べ物とリンクして蘇る。

もしその店に行けたら何を注文するんだろう。

2016年11月24日(木)

本「猿の見る夢」感想

汚くてもそれが人間

59歳の薄井という主人公は自分勝手、優柔不断、冷酷で芯のない、女と金の欲望に場しのぎのことしかできない、そういう人。家庭に居場所がないと言い訳に愛人を作り、愛人とうまくいかない時はまた他の恋人を探し、それがだめな時は「やっぱり家が一番」といって転がる人。

なのにこの本を手に取って一気に読めたのは不思議だ。なんとなく共感できるとこがあって、なんとなくこんな男の最後を見届けたいという高みの見物みたいの心境もあった。そして読みながらだんだん恐怖を覚えた。それは物語のつなぎ役の神秘で気持ち悪い占い師によるものでもあり、主人公の遭遇に共感と共鳴することで自分もいつかそうなるのではないかと、薄々不安を感じた部分もある。三人称で書かれたのはあえてあまり感情移入せずに客観的に見て欲しかという意図があったそうだが、妙に惹かれるところは未だによくわからない。

最初の拗ねるところが薄井の人間性をよく表した。キャリア上もっとも運命を決めるチャンスかもしれない会長との極秘ミーティングを、愛人と先約があるということで早めに終わらせ(こういう面では評価できるかもしれない)、行きつけのレストランに時間通りに行ったら逆に愛人が1時間も遅刻する、しかも相手が時間と場所を決めたのに…店内は若者のグループが合コンでうるさくいし、こっちは常連なのにいつもの席に座らせてくれない、などなどで物事がどんどん都合の悪い方向に転び、やがて拗ねて自爆する羽目になる。怒ることに至らない「単品」の小さな挫折が「セット」で来ると、我を失う。ほとんどの人はそうじゃないのかな。

愛人関係というと、毎週二回会って料理とワインを飲んでセックスする、というルーティンを10年も続いている。平日に一回、週末に一回、全部仕事の接待やら飲み会やらの言い訳で家族をごまかして10年間。そして深夜前には絶対自宅に帰る、愛人宅では一切止まらないと、せめてもの家族への優先順位のケアというか、そういうところがある。。。何ことも長続くことに意味があるという観点からは、もうこの「若さ」と「継続さ」に感心するほかならない。

中盤に入ってからは薄井が自宅に帰った様子が書かれたが、まさに「犬以下」の待遇でちょっと同情したい気もあった。卵と鶏の問題かもしれない。家庭内に居場所がないから外で快楽を求めているのか、外で快楽を求めているから家で冷遇されるのか。その悪の循環が全てを壊す。

そういう仕事、家庭、親族、そして女性関係(これは自己責任といえばごもっともだが)からのストレスは分からなくもない。不倫がバレて家から追い出されて、一人になってからの好き放題やり放題の開放感から間も無くまた寂しくなり、「男は安定な家庭があるからこそ一人になりたい」と悟った主人公。誰しも一つや二つ共感できることはあると思う、だからこそ怖いのだ。もしも一歩ずつ間違えたら、そういう滑稽で狡猾で卑劣な人間になるのではないかと。

一箇所だけ著者の意見が文中で表したと思う。

男は女に縛られると、自由が欲しくなって飛び出し、自由を得た途端にまた女が欲しくなる。馬鹿な動物なのだ。

(自分も含めて)ほとんどの男性は認めざる終えないだろう、この矛盾でどうしようもない内なる感情を。

一番不思議だったのが、一回目読んだ時はひたすら主人公のことを見下してた。何でこんな人間失格のストーリーを読むんだ、と疑問に思った瞬間もあった。しかしもう一回パラパラと読み直したら、何となく著者が表紙て書いた「これまでで一番愛おしい男を描いた」の意味がわかってきた気がした。思わず女を比べた時の罪悪感、別れた時の涙、貶された方を庇いたい気持ち、結局誰にも愛されてない時の挫折など、いかにも人間らしい感情。もし、自分の過去を他人のストーリーのようにもう一回客観的に読み直せるんだったら、同じく滑稽で狡猾で卑劣に見えるのだろうか。心のどこかにそういうピエロが潜んでいるのではないか。

最後のエンディングは個人的にどうしても腑に落ちなくて薄気味悪かった。「雑な仕事」としか思えてなくて、ようやく映画がクライマックスになろうとした瞬間、停電で強制解散された感が半端なかった。

誰が読むべきか?読むことをすすめするのか?

ん。。難しい。全体的に読みやすかったし、59歳という、失礼だけど、もうおじいちゃんのはずの人の具体的な悩みや挫折を鮮明に伝えたし、各登場人物とのリアルに汚い、見苦しいディテールまで見えるのはよかった。各自の人生経験とステージによって得られるものは絶対あるだろう。

若かった時はよく「定年退職後にやりたいこと」を友達と妄想してた。まるで、老後は仕事のストレスから解放され、それこそ人生を楽しめる時期かと勝手に心のどこかで思ってた。そんな都合のいいことは絶対ないだろうと、本作を読んでもう一回考えてみた。16歳には16歳の悩みがあり、59歳には59歳の悩みがある。何かの「ステージ」に物理的にたどり着いたといって全部が望む方向に転ぶことは絶対ありえない。だからやりたいことがあれば「今」だと、ちょっと意識高いことを言ってみたくなる。

最後にいくつか主人公の「悟り」を引用してこの記事を終了し、この本にもちゃんとありがとうとさよならを伝えたい。

自分の会社であれば、人はいくらでも働くり問題は、他人にその熱意をどう共有させるかだ。創業者には、雇われた者の気持ちは永遠にわからないだろう。
P16

結婚してからは、一人になりたくてもなれない状態が続いていた。美優樹(注:薄井の愛人)と付き合うようになって、美優樹の部屋、という会社と自宅との中間点の居場所が出来た。美優樹との付き合いが長くなったのも、結局はそういう居場所が欲しかったからではないかと気づく…会社で働き、美優樹の部屋で解放され、家に戻って会社の準備をする。その繰り返しの日々だった。
P328

本当の独りになった途端、独り身を楽しめるのは、家族がいるからこその贅沢だとようやくわかった気がする。
P392

2016年11月11日(金) Book

本:虐殺器官、SFだからこそ人間の原点について語られる

9・11以降の世界、テロ対策としてID認証が生活のあらゆるところに浸透している。第一人称で書かれた「僕」という人間はアメリカ特殊部隊で暗殺屋をやっている。高度に発達したバイオテクノロジーを武器にして、虐殺が氾濫している様々な戦場へ派遣され、キーパーソンを暗殺し続けても世界は一向に平和にならない。唯一の手がかりはジョン・ポールという男、彼がいるところは常に大量殺戮が起きる、暗殺リストの常連になっているが、「僕」がその現場に駆けつけた時はもうそこにジョン・ポールはいない、まるでゴーストのような存在。彼の目的はなんなのか、どんな手段で虐殺を引き起こしたのか、「僕」はジョン・ポールを暗殺できるのか。これがメインストーリーとなるが、この本の素晴らしさはこれだけではない。

最初に惹かれたのは文章の中のスパイスだ。戦場や虐殺の現場とその死体の描写がやたらとリアルで、「気持ち悪い」よりかは戦争の恐怖を覚えさせる。村の広場に掘られた穴の中で死体が焼かれ、筋肉が収縮し髪の毛から発散した臭い匂い、何もかも臨場感がやばかった。平面上での文字でここまで没入感をもたらすとは感心した、まるでVRメガネでそこに立ち、さらに臭覚まで再現されたような感覚だ。

主人公達は戦場へ出発する前にカウンセリングを行う。そこで脳内マスキングというのを受ける、要は戦場でいちいち子供兵を殺す時の「余計」な論理的思考を「排除」するオペレーションだ。事後にPTSDにならないよう、事前に予防ワクチンを打っておくようなものだ。それにしても主人公は常に殺人について考える。国家の命令だから、良心の部分をテクノロジーで麻痺したから、平然と人の命を取ることに何の罪悪感も感じない自分に悩まされる。良心とは何か、個体の進化の過程においてそれは邪魔者なのか、遺伝された「人間らしさ」の一つなのか、真の自由を妨げるものなのか、主人公が一人で考えたり、他人との会話で議論されたりして、読者に咀嚼してもらうところがよかった。

もう一つ特筆したいのは家庭問題だ。主人公が幼い時、お父さんが自殺した。自分の親が自殺すると、どれだけ深刻な影響をその家庭に及ぼすか、これで少しは覗き見できる。彼もいつかお父さんのように「消える」のではないか、と心配してるように母からは常に用心深く見られてた。とにかく「僕は消えないよ」を伝えるのが彼の前半の人生においての第一の優先事項で、周りに迷惑かけない、静かで大人しく人生を過ごすことに注力してきたが、そのような生活に疲れてエキストリームに、就職先を軍にしてしまった。本当に親というは生死問わず生きている子供の人生分影響を与えることだな。

世界各地の戦場に足を運び、ひたすら命令通りに暗殺という「業務」をこなす中、ある日自分のお母さんが交通事故にあった。意識不明になりドクターからは延命装備を外すか否かという問いに、主人公は初めて自分の選択で人の生死、しかも生身の自分の母の、を決めなくてはならなくなった。医学が進化し脳の研究も十分発達してかえって悩ましいことに、意識あり・なしの定義が医学的にも社会的にもグレーゾーンになっていて、今病院のベッドの上に横になっているは自分のお母さんなのか、骨と肉と筋肉で出来上がった「塊」なのか、明確な定義がないことだ。どれぐらい脳が機能すればそれを「人」と呼べるのか、魂はあるのか、自分はお母さんをこのまま生かすべきなのかそれとも・・・その葛藤がまたいつも主人公を苦しめる。

もちろんSFの要素も盛りたくさん仕込んである、十分読み応えはある。自動出血措置を行うスマートスーツ、指紋認証がついてる銃、カモフラージュ機能で周りの環境にとじこむ迷彩服、自動分解できる侵入鞘、ナノディスプレイになる目薬、痛さは「知る」けど痛みを「感じない」痛覚マスキングなど、今後映画が出来上がったらぜひそれらのテクノロジーを観てみたい。

全体の感想としては、まさにSFだからこそ、色々と厳しい問題を露わに表現できて、人間性についてシリアスに考えることができたと思う。

2016年10月01日(土) Book

外注という体の課金

最近一部の開発業務を外注したことがあった。またそれと全然関係ないけど「虐殺器官」というフィクションの本では将来戦争そのものを外注していると書いてあった。なぜかこの二つが意外にリンクして、ちょっとだけ潜って書いてみたくなった。

外注や業務委託という言葉はビジネス用語だろうか、オフの時の会話ではあまり使わないけど、実際は身近な生活に溶け込んでいるよね。クリーニングに洗濯を頼んだり、タクシーを頼んだりして、時間短縮あるいは品質向上などの目的で外部のプロなり専門家にその仕事を外注して、それに対価なるもの(お金)を払う。実物にこだわらず、あらゆるサービスも範疇ならば、スキルの交換ももちろん中に入る。外注側と請け負う側があり、その間のモノやサービスの交換の全体が「経済」と言えるだろうか?

個人や団体間では法律を利用した「喧嘩」そのものを「弁護士」に外注できるし、国家レベルではまだ「喧嘩」が外注という形にはなってないが(?)、武器の輸出のビジネスパートナー関係には行っている。直接手を貸す傭兵という団体も昔から存在している。その支払いがほとんどお金と考えると、うん、ちょっと気味が悪い。

「虐殺器官」ではこう書いた。

業務であるから、予算を立てることもできるし、計画することもでき、業者に発注することもできる...戦争が単なる仕事であるということ。予測も統御も可能な「作業」であるということだ。

要は今のマネージメントの手法とノーハウが適用できるわけだ。これがまた恐ろしい。いざ戦争になったらこのIT業界のエリートのマネージャー達は戦争という業務をスムーズに管理しゴールまで持っていくのか?時代が違ったら戦争の英雄か犯人かになるかもしれない。

話がだいぶ飛んだ。僕がいる業界だけの話に戻ろう。

そう今日の仕事のミーティングでは「即戦力」や「リソース」のような単語で外注先の話をして、あの言葉で一瞬思考が飛んでしまった。クリーニングのように「仕様」がシンプルな業務は外部に頼むのもさほどハードルが高くないが、ビジネス上業務を外注するのはリスクが伴う。ただうまくいった場合は即座に「戦力」と「リソース」が上がり、大幅に時間短縮ができ、それが価値で企業側はそれによって利益を生む。

なんだか若干ソーシャルゲームで待ち時間を短縮するために課金するようにも思った。特に深い意味はない。

2016年09月21日(水) 雑談

小説:マスカレード・ホテル、プロの仕事に惹かれる

東野圭吾の小説を読むのはこれが二回目です。前はドラマを結構観て面白いと思ったんですが、小説には小説の持ち味があって数ページ読むだけでまんまとはまりました。

この小説はいうまでもなくホテルが舞台となったストーリーです。連続殺人事件の第四の場所がホテルコルティアだと警察が予知できて、フロントクラークやベルボーイなどホテルのスタッフに化けて潜入捜査を行い何とかして次の事件を未然に防ぎたい、というのが警察側のプランでホテル側としてはもちろん殺人事件を防ぎたい気持ちは同じですが、顔つきの「悪い」警官達がホテルマンとしてロビーにいるとき、いかにサービスのクォリティーを落とさずにいられるかがまた大きな課題であり、両サイドの協力し合いつつも妥協できない渦巻きのど真ん中にいるのが主人公である山岸尚美というフロントクラークと新田という同じフロントに潜入捜査する刑事です。二人の衝突と対立、誤解と和解、それぞれの立場からの仕事へのプロ意識が事件そのものを超える醍醐味であると僕は思います。

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特に山岸尚美の仕事ぶりに感心しました。ストイックでお客様を心から大切にし、そのホテルに泊まってくる以上最高のサービスを提供したい、そういう一見つまらなさそうな人かもしれませんが、小説の冒頭部分を少しでも読めばなんとなく惹かれる人物です。なぜホテルマンを目指したのかも素晴らしいエピソードで、そこはぜひ読んでご自分で楽しんでください。

通常、ホテルのフロントクラークといえばただチェックイン・チェックアウト業務を機械的にマニュアル通りにこなすイメージかもしれませんが、これを読んで、ああ実はホテルに訪れる人々は様々なバックグラウンドでいろいろな課題を抱えているのが分かるようになって、人と接触する職業はーー自ら目を閉じない限りーー退屈にはならないことかなと改めて思いました。

またそのようないわゆる「単純作業」と、世間から見られても誇りを持って真剣に取り組めば、ただ綺麗ごとを並べるのではなく、それが常に実行できる人間はやはり自然にリスペクトしてしまい、そう誇りを持って仕事に臨みたいという気持ちにさせます。全然ホテルの仕事と関係なくても楽しめる要素はたくさんあります。

この本を読んで、一度はこういう高級ホテルに泊まりたくなったのが一つの感想、ただフロントに行くときは、変に期待感を高めてしまう可能性が非常に高いと心配しています。

もう一つは敬語が面倒くさいことではなく、本当に生きてる感じ、「本来の敬意」そのままが含まれているときは綺麗だなと思い知らせてくれました。

最後に二つ特に印象に残った文章を引用してこの記事を締めたいと思います。

「ホテルの外でなら何が起きても構わない、というわけですか」の新田の問いに対し、「私たちはお客様の幸福を祈っています。でも自分たちが無力であることもわかっています。だからこそ、ご出発のお客様には、こう声をおかけするのです。お気をつけて行ってらっしゃいませ、と」客がホテルにの中にいるかぎりは、全力をかけて守ってみせるーー新田にはそう聞こえた。

「ホテルに来る人々は、お客様という仮面を被っている、そのことを絶対に忘れてはならない。ホテルマンはお客様の素顔を想像しつつも、その仮面を尊重しなければなりません。決して、剥がそうと思ってはなりません。ある意味お客様は、仮面舞踏会を楽しむためにホテルに来ておられるのですから」

マスカレード・ホテル (集英社文庫)

2016年09月10日(土) Book

一度きりの人生、修正できない「記録」

アメリカビザの申請フォームを記入していた、DS-160というやつ。

名前やパスポートなどの基本情報の後に一連の過去を遡るような質問が続いていた。大学や過去に務めた会社情報を入力するように要求された。久しぶりに卒業した大学のウェブサイトを開き、住所と電話番号まで入力した。幸い今の会社で5年務めたから過去の会社は記入しなくても済んだ、5年がその境界線らしい。そこからいくつか違和感というか、気になったのは「生身の親の名前と生年月日」や「家族に犯罪を犯した者はいたのか」のような質問などだ。フォームの記入が終わってても、モヤモヤした気持ちは晴れなかった。

面倒くさいと思ったわけではない(ビザの申請は大抵面倒なことだ)。何かが引っかかった。それは「記録」ということなのかな?

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誰が生身の親になるかは自分に選択の権利がない。仲が良くても悪くても、わけあって自ら関係を絶えたとしても、一生この項目に逆らえない、弁明もできない、認めたくなくても永遠に「その人」の名前を記入しなくちゃいけない。

また仮に家族に犯罪者がいたとしたら、その質問に対しては「YES」と選択しないといけない。もちろんYESと答えたからビザが下りないことはないだろうけど、少なくともそういった「記録」は一生背負うことだと思うと気が遠くなる。

学歴や就職の履歴は上記と違って自分の判断や能力と行動でだいぶコントロールができる。何か文面に落とすと恥ずかしい過去があるとしたら自己責任、自業自得というふうに一般的に見られるだろう。しかし中ではレアケースがあるのでは?そのイレギュラーな事例に対して耳を傾ける人は公的機関に存在するのだろうか?

ちょうど僕が大学の入学試験を受けた年に家庭内が色々が問題が起きて、当時かなり父と対立、激突してた。
家で漂ってる無形な空気は刃物のように、触れるだけで皮膚が裂け血が出そうになるくらいの戦闘態勢だった。喧嘩後は髪型を丸坊主にして家に入って父の怒鳴りの顔を見て、かすかに僕は微笑んだ。こういうささやかで愚かな「復讐」は当時の自分には必要だった、ただの反抗以上の意味があった。それがエスカレートーしたらもう大学に行かず、あるいは志願書を適当に遠いところの大学に記入すればもっと大きな復讐になれるかも、とも妄想した。

そこからなんだかんだ事態は収まり、僕もそれ以上の投げ出しの行動はとらなくて済んだのはよかったが、一歩間違えれば今の人生とは真逆な結果になったのかもしれない。そしたら僕という人間はまだ同じ人間なのか、何のマイナス記録もない「白」の自分と、一時的に衝動的な行動を取り「汚れ・恥・不都合」の記録を残してしまった自分、果たして同一人物だと主張できるだろうか。別の世界線で「そっち側」に行ってしまった場合、こういったフォームを記入して、面接官にはどう見られるのか?大使館を出た時、世間からはどう接してくれるのか?それとも紙一重のように見える選択肢の中で、結果論として「正しいかつ冷静な判断」を下したからこそ初めて評価の対象になるのか・・・

decision

だいぶ脱線してしまった。

まあこのDS-160というフォームを記入して、なんとなく世間と社会は厳しいという印象を受けた。「個性」を訴える風潮があっても、こういった公的機関にはどんな理由があろうと、記録として残されたものはもみ消せないし否定もできない。「一つ一つの決断の在り方がその人の人生を形作っていく」のようなポジティブ、表向きの言葉もあるが、その反面、この厳しい世界で少なくとも不利な、不都合な記録を避けられるのなら、工夫して避けよう、融通が効かない場合に備えて。

p.s. 一応僕は家族といい関係だと思うし、自分も含めて家族も法律を守って、レールに乗って生きてきたのだが、なぜそこまで妄想が膨らんだかはまだ不明。もしかしたらちょうど「コンビニ人間」という本をこの時期読んでいたので、気が動転したのだけかもしれない。

2016年09月05日(月) life

オープンキッチン

オープンキッチンがあるレストランは何かが特別だと期待をしてます。普通なら料理人が裏側で料理を作り、他のスタッフによりその料理が客のテーブルに運ばれ、客がそれを口にした瞬間どういう反応をしたかは見えないですが、オープンキッチンの場合客が目の前に座っているし、物理的になんの「遮断」もなく食事を取る全貌が見えるからこそ手応えも感じるし、またはその進捗によって料理を出すタイミングも調整することが可能です。客にとってもどういうふうに料理が作られているか見えて、チェフがキッチンでの振る舞い自体がある種の楽しみでもあります。

それがオープンキッチンのメリットだと思いますが、この前に行ったレストランは完全にそれを裏切った体験でした。

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オープンキッチンの真っ向に座っているのにもかかわらず、宴会の人数が揃ってないにもかかわらず、まだ序盤なのに料理が次から次へと出されてしまって一気にテーブルがいっぱいな状態になってしまった。そのあげく後半になってからは一気にペースが落ちてて全然料理が出されてなかった。刺身やピザなど温度が変わると食感そのものが変わる「敏感」な料理は、客が無関心でも、製造者側(この場合は料理人)は少なくとも出すタイミングをこだわってほしいところです。じゃないと完全に「製造者側の都合」で、さっさと出して終わらせよう、というふうに受け取るかもしれません。


この記事は決してそういう店に対して文句を言いたいのではなく、ウェブのエンジニアを長年やってきて、一人の「製造者」としてオープンキッチンというシステムには憧れがあります。

一度うちの創業者からウェブサービス開発を「リアルな店舗を経営する」というアングルから見てみる話を聞いたことがあります。お客さんが店に入った後どういう行動を取っているのか、そもそもドアを押すか引くかで迷ってないか、だったら自動ドアにすべきか、メニューは見やすいか、どの料理を一押ししたいのかなど、ウェブサイトを物理的な店舗に置き換えると色々と新しいものが見えてくると思います。

ただウェブ上では、我々が作ったものがどういうふうに使われているか、物理的に見ることは不可能に近いです。チェフが厨房から出て客とコミュニケーションを取るのもよく聞く話で、ウェブ業界でも似たように、ユーザーさんを招いて新作のプロトタイプを触ってもらう、というユーザーテストの手法もあります、が「チェフが厨房から出る」よりかはまだまだセットアップのコストとハードルが高いし、製造者が直接関与する場合中々素直な反応を得ることは難しいだと思います。よっぽどのことがない限り、消費者にとっては初対面の製造者にガツンとダメ出しをする人間は少ないでしょう、みんな気を使うから。Mixpanelなどのユーザー追跡のツールが充実してはきているが、オープンキッチンのようなリアル店舗での直感的なフィードバックにはまだまだ敵わないですね。

そして組織的にそういったユーザーの「声」(問い合わせやご意見)を拾うのはまた別部署、製造者本人たちではないケースがほとんどでしょう。確かにそう分割したほうが効率的かもしれませんが、その声が完全に遮断される恐れもあり、本人自ら拾いに行かないとそれは永遠に耳に入らないかもしれない。綺麗なコードやシステムの最適化だけを追求するようなーー決して悪いことではなくむしろエンジニア評価の軸の一つですがそれしかやらないというマインドセットに関しての話ですがーーよくありがちな夢に永遠に浸かってるまま、エンドユーザーがどういう反応をしたか、そのことすら気にしない「製造者」は業界問わずいるのではないかと思います。


どの業界にも「オープンキッチン」のような無遮断、無関与、ありのままで製造者と消費者をつなぐ「窓口」があるわけではないから、せっかくオープンキッチンに装飾した場合、それをただの飾りやおしゃれにするのではなく、ちゃんと目を開けて、観察しながら料理を作ってほしい、そういった贅沢なステージはそうは多くないから。

2016年07月31日(日)