電車の中の数多な広告の中で、宝物探しのように自分にささるものを意識的に集め始めている。収穫数はなかなか伸びないが、厳選した3つをひとまず紹介したいと思う。
去年履いてた短パンがこの夏にはきつくなり、デブ化の進み具合を痛感し、ジムに通いはじめている(何しろこういうのは人生初の体験である)。たっだ数日ではもちろん効果は出ない。それでもやり抜くためには、何かしら自分に言い聞かせの言葉が必要になってくる。
誰に読まれたいのか——検索エンジンか、人間か
ライターとブロガーの鍛える筋肉について
ブログを新しく始めている人、真剣に取り組んでいる人、ブログで生計を立てている人、誰でも通る道であろうSEOと、それがどう書き手のモチベーションに影響するのか、いくつかの感想を伝えたいと思う。
「当店のポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「今すぐ作れますがいかがなさいますか?」
「結構です」
ポイントカードほどめんどいものはないと思う。
計算してみれば大して割引にならないのに、
忘れた時の精神的ダメージが大きい。
本屋で冒頭の数ページを読んで買うことを決めた。開幕のシーンがよかった。惹かれたっていうか、刺されたって言うか。
わざわざ早朝に一人で車を運転してスキー場にやってきて、パウダーゾーンを狙う主人公、そこに自撮りに難航していた一人の女性スノーボーダーに気づき、シャッターを押してあげることにした。定番の「念のため、もう一枚」という時に、「ちょっと待って」と言われ、その女性はゴーグルをヘルメットの上にずらし、フェイスマスクを下ろした。元々覆われた顔が現れ、主人公はどきっとしたわけだ。その後、女性は密集した木々の間を、雪煙を上げながら滑り抜けていく。あっという間に引き離され、見失ってしまった。残されたのは誘えばよかったと後悔した我が主人公…
深夜食堂
今日は珍しく人と喋りたくなった
一日が終わり、絡みついてる何かをふるい落とすかのように、「深夜食堂」を観ると心が落ち着いて、また明日も頑張っていける気がする。見るのが惜しいくらいハマってる。
まったくタイトルに騙されてた。ただ深夜に何かのグルメを紹介する番組かと思ってた。だからずっと抵抗があって遠下がっていた。「人は見かけによらぬもの」というのは、これにも適用できるんだな。
さて、これはどんなドラマなのか。どういう人が夜12時以降から唐揚げや豚汁を食べるんだろう。最初は不思議で仕方なかった。
新宿の娯楽街の近くにあるこの店に通ってる人たちはちょっとだけ尋常じゃない普通の人だ。彼ら彼女らにはそれぞれストーリーがある。背負っているものがある。この深夜食堂があらゆる背景の人たちの交差点となり、アジトとなり、心を温めるところとなったのだ。
みんな何を食べるって?それが醍醐味だ。
夜が静まり、偽装と仮装を下ろし、すっぴんの我に戻った時に食すこの一品は、フランス料理でもない、A5和牛でもない、極めてシンプルなものだ。それはお袋の味、家庭の味、片思いの味、未練の味、自分のの人生の味そのものだ。大事な人との思い出が食べ物とリンクして蘇る。
もしその店に行けたら何を注文するんだろう。
本「猿の見る夢」感想
汚くてもそれが人間
59歳の薄井という主人公は自分勝手、優柔不断、冷酷で芯のない、女と金の欲望に場しのぎのことしかできない、そういう人。家庭に居場所がないと言い訳に愛人を作り、愛人とうまくいかない時はまた他の恋人を探し、それがだめな時は「やっぱり家が一番」といって転がる人。
なのにこの本を手に取って一気に読めたのは不思議だ。なんとなく共感できるとこがあって、なんとなくこんな男の最後を見届けたいという高みの見物みたいの心境もあった。そして読みながらだんだん恐怖を覚えた。それは物語のつなぎ役の神秘で気持ち悪い占い師によるものでもあり、主人公の遭遇に共感と共鳴することで自分もいつかそうなるのではないかと、薄々不安を感じた部分もある。三人称で書かれたのはあえてあまり感情移入せずに客観的に見て欲しかという意図があったそうだが、妙に惹かれるところは未だによくわからない。
最初の拗ねるところが薄井の人間性をよく表した。キャリア上もっとも運命を決めるチャンスかもしれない会長との極秘ミーティングを、愛人と先約があるということで早めに終わらせ(こういう面では評価できるかもしれない)、行きつけのレストランに時間通りに行ったら逆に愛人が1時間も遅刻する、しかも相手が時間と場所を決めたのに…店内は若者のグループが合コンでうるさくいし、こっちは常連なのにいつもの席に座らせてくれない、などなどで物事がどんどん都合の悪い方向に転び、やがて拗ねて自爆する羽目になる。怒ることに至らない「単品」の小さな挫折が「セット」で来ると、我を失う。ほとんどの人はそうじゃないのかな。
愛人関係というと、毎週二回会って料理とワインを飲んでセックスする、というルーティンを10年も続いている。平日に一回、週末に一回、全部仕事の接待やら飲み会やらの言い訳で家族をごまかして10年間。そして深夜前には絶対自宅に帰る、愛人宅では一切止まらないと、せめてもの家族への優先順位のケアというか、そういうところがある。。。何ことも長続くことに意味があるという観点からは、もうこの「若さ」と「継続さ」に感心するほかならない。
中盤に入ってからは薄井が自宅に帰った様子が書かれたが、まさに「犬以下」の待遇でちょっと同情したい気もあった。卵と鶏の問題かもしれない。家庭内に居場所がないから外で快楽を求めているのか、外で快楽を求めているから家で冷遇されるのか。その悪の循環が全てを壊す。
そういう仕事、家庭、親族、そして女性関係(これは自己責任といえばごもっともだが)からのストレスは分からなくもない。不倫がバレて家から追い出されて、一人になってからの好き放題やり放題の開放感から間も無くまた寂しくなり、「男は安定な家庭があるからこそ一人になりたい」と悟った主人公。誰しも一つや二つ共感できることはあると思う、だからこそ怖いのだ。もしも一歩ずつ間違えたら、そういう滑稽で狡猾で卑劣な人間になるのではないかと。
一箇所だけ著者の意見が文中で表したと思う。
男は女に縛られると、自由が欲しくなって飛び出し、自由を得た途端にまた女が欲しくなる。馬鹿な動物なのだ。
(自分も含めて)ほとんどの男性は認めざる終えないだろう、この矛盾でどうしようもない内なる感情を。
一番不思議だったのが、一回目読んだ時はひたすら主人公のことを見下してた。何でこんな人間失格のストーリーを読むんだ、と疑問に思った瞬間もあった。しかしもう一回パラパラと読み直したら、何となく著者が表紙て書いた「これまでで一番愛おしい男を描いた」の意味がわかってきた気がした。思わず女を比べた時の罪悪感、別れた時の涙、貶された方を庇いたい気持ち、結局誰にも愛されてない時の挫折など、いかにも人間らしい感情。もし、自分の過去を他人のストーリーのようにもう一回客観的に読み直せるんだったら、同じく滑稽で狡猾で卑劣に見えるのだろうか。心のどこかにそういうピエロが潜んでいるのではないか。
最後のエンディングは個人的にどうしても腑に落ちなくて薄気味悪かった。「雑な仕事」としか思えてなくて、ようやく映画がクライマックスになろうとした瞬間、停電で強制解散された感が半端なかった。
誰が読むべきか?読むことをすすめするのか?
ん。。難しい。全体的に読みやすかったし、59歳という、失礼だけど、もうおじいちゃんのはずの人の具体的な悩みや挫折を鮮明に伝えたし、各登場人物とのリアルに汚い、見苦しいディテールまで見えるのはよかった。各自の人生経験とステージによって得られるものは絶対あるだろう。
若かった時はよく「定年退職後にやりたいこと」を友達と妄想してた。まるで、老後は仕事のストレスから解放され、それこそ人生を楽しめる時期かと勝手に心のどこかで思ってた。そんな都合のいいことは絶対ないだろうと、本作を読んでもう一回考えてみた。16歳には16歳の悩みがあり、59歳には59歳の悩みがある。何かの「ステージ」に物理的にたどり着いたといって全部が望む方向に転ぶことは絶対ありえない。だからやりたいことがあれば「今」だと、ちょっと意識高いことを言ってみたくなる。
最後にいくつか主人公の「悟り」を引用してこの記事を終了し、この本にもちゃんとありがとうとさよならを伝えたい。
自分の会社であれば、人はいくらでも働くり問題は、他人にその熱意をどう共有させるかだ。創業者には、雇われた者の気持ちは永遠にわからないだろう。
P16結婚してからは、一人になりたくてもなれない状態が続いていた。美優樹(注:薄井の愛人)と付き合うようになって、美優樹の部屋、という会社と自宅との中間点の居場所が出来た。美優樹との付き合いが長くなったのも、結局はそういう居場所が欲しかったからではないかと気づく…会社で働き、美優樹の部屋で解放され、家に戻って会社の準備をする。その繰り返しの日々だった。
P328本当の独りになった途端、独り身を楽しめるのは、家族がいるからこその贅沢だとようやくわかった気がする。
P392
9・11以降の世界、テロ対策としてID認証が生活のあらゆるところに浸透している。第一人称で書かれた「僕」という人間はアメリカ特殊部隊で暗殺屋をやっている。高度に発達したバイオテクノロジーを武器にして、虐殺が氾濫している様々な戦場へ派遣され、キーパーソンを暗殺し続けても世界は一向に平和にならない。唯一の手がかりはジョン・ポールという男、彼がいるところは常に大量殺戮が起きる、暗殺リストの常連になっているが、「僕」がその現場に駆けつけた時はもうそこにジョン・ポールはいない、まるでゴーストのような存在。彼の目的はなんなのか、どんな手段で虐殺を引き起こしたのか、「僕」はジョン・ポールを暗殺できるのか。これがメインストーリーとなるが、この本の素晴らしさはこれだけではない。
最初に惹かれたのは文章の中のスパイスだ。戦場や虐殺の現場とその死体の描写がやたらとリアルで、「気持ち悪い」よりかは戦争の恐怖を覚えさせる。村の広場に掘られた穴の中で死体が焼かれ、筋肉が収縮し髪の毛から発散した臭い匂い、何もかも臨場感がやばかった。平面上での文字でここまで没入感をもたらすとは感心した、まるでVRメガネでそこに立ち、さらに臭覚まで再現されたような感覚だ。
主人公達は戦場へ出発する前にカウンセリングを行う。そこで脳内マスキングというのを受ける、要は戦場でいちいち子供兵を殺す時の「余計」な論理的思考を「排除」するオペレーションだ。事後にPTSDにならないよう、事前に予防ワクチンを打っておくようなものだ。それにしても主人公は常に殺人について考える。国家の命令だから、良心の部分をテクノロジーで麻痺したから、平然と人の命を取ることに何の罪悪感も感じない自分に悩まされる。良心とは何か、個体の進化の過程においてそれは邪魔者なのか、遺伝された「人間らしさ」の一つなのか、真の自由を妨げるものなのか、主人公が一人で考えたり、他人との会話で議論されたりして、読者に咀嚼してもらうところがよかった。
もう一つ特筆したいのは家庭問題だ。主人公が幼い時、お父さんが自殺した。自分の親が自殺すると、どれだけ深刻な影響をその家庭に及ぼすか、これで少しは覗き見できる。彼もいつかお父さんのように「消える」のではないか、と心配してるように母からは常に用心深く見られてた。とにかく「僕は消えないよ」を伝えるのが彼の前半の人生においての第一の優先事項で、周りに迷惑かけない、静かで大人しく人生を過ごすことに注力してきたが、そのような生活に疲れてエキストリームに、就職先を軍にしてしまった。本当に親というは生死問わず生きている子供の人生分影響を与えることだな。
世界各地の戦場に足を運び、ひたすら命令通りに暗殺という「業務」をこなす中、ある日自分のお母さんが交通事故にあった。意識不明になりドクターからは延命装備を外すか否かという問いに、主人公は初めて自分の選択で人の生死、しかも生身の自分の母の、を決めなくてはならなくなった。医学が進化し脳の研究も十分発達してかえって悩ましいことに、意識あり・なしの定義が医学的にも社会的にもグレーゾーンになっていて、今病院のベッドの上に横になっているは自分のお母さんなのか、骨と肉と筋肉で出来上がった「塊」なのか、明確な定義がないことだ。どれぐらい脳が機能すればそれを「人」と呼べるのか、魂はあるのか、自分はお母さんをこのまま生かすべきなのかそれとも・・・その葛藤がまたいつも主人公を苦しめる。
もちろんSFの要素も盛りたくさん仕込んである、十分読み応えはある。自動出血措置を行うスマートスーツ、指紋認証がついてる銃、カモフラージュ機能で周りの環境にとじこむ迷彩服、自動分解できる侵入鞘、ナノディスプレイになる目薬、痛さは「知る」けど痛みを「感じない」痛覚マスキングなど、今後映画が出来上がったらぜひそれらのテクノロジーを観てみたい。
全体の感想としては、まさにSFだからこそ、色々と厳しい問題を露わに表現できて、人間性についてシリアスに考えることができたと思う。