『死人荘の殺人』の続編。設定も人物もそのまま受け継がれ、ホームズとワトソンが次のミステリ事件に巻き込まれる。
序盤はあまりにもペースが遅過ぎて全然進まなかった。もし前作を読んでいなかったら、恐らく諦めたかもしれない。中盤に入り、(言葉はあれですが)一人目の被害者が出てからは、ようやく勢いが増して、最後の死闘までテンポよく突き進んだ。
前作ほどの衝撃はなかったが、これはこれで、斬新な発想でいい頭の体操になって、けっこう楽しめた。
何回も本屋で見かけ、一回読んでみたらドハマった。魔力があるように。
全体的に、とても「現代」の感じが漂う作品だと思う。時代背景も、スタイルも、キャラクターの言葉遣いも。今まで「本格ミステリ」って言ったらパソコンすら復旧していない、「過去」の設定のイメージが多く、小説自体の面白さに影響はないけど、「今」ではないのが多少は距離感を感じてしまう。本作がその「穴」をほどよく埋めてくれて、なおかつ新しい流行りの要素をモリモリ取り入れたのが、読者としてありがたい。
本の序文では受賞の言葉が載せられ、心に響く:「自分の想像で誰かを楽しませたい。その原点を忘れず、これからも邁進したいと思います。——今村昌弘」
そして、ミステリ固有の多数の登場人物を一瞬にして覚えやすくする巧技も、著者の親切心を感じられる。
これから読む方のために、ネタバレを避け、細かく語れないのがもどかしい。これだけはぜひ体感してほしい、というところをあげるとしたら…
「人は〇〇に対してそれぞれのエゴや心象を投影する」。その〇〇と対峙するとき、自分はどう映っているのだろうか、なんとなく、その妄想に耽る。
今日は本屋でゆっくりしながら二冊の本を買った。一冊は小説で、「犬。そこにいるのにいぬ」のダジャレがツボって、もう一冊は「記憶」をテーマにしたエッセイで面白かった。戻って本棚の一番上に置いといたら、「あー😩また積ん読が増えた」と内心で呟いた自分に気づいた。
元々読書は楽しい体験のはずなのに、この拭ききれない罪悪感はどこから生まれたのか?そしてふとこう思った。積ん読は「失敗した買い物、お金の無駄遣い」ではなく、「自分のための図書館を作っている」と、こうやってシナリオを書き換えればずいぶんと気が楽になった。我ながらなかなか良い思考転換だと思う。
もう昔の本だけど、少し前に読み終わってなかなか面白かった。
『騎士団殺し』を読んでおいたので、村上春樹の小説の「癖」は了承の上というか、心の準備が今回はできた、さすがに😓。ストーリーの伏線は回収されないし、セックスシーンの描写も相変わらずやたらと尺を取る…それらを置いといて、自分探し・自我補完の心の旅がありありと繊細に描写され、途中から一気に加速し、本に線を引く暇もなく読み終えた。個人的にかなり納得のいった物語である。
色褪せない人生の一冊
湧き出そうとする涙を必死に堪えて、雪の積もった道をひとりの少年が狼狽えていた。彼は自分のなしたこと、いや、なさなかったことに悔やんでいた。友達を裏切った罪悪感、取り残された孤独感が押しかけ、連日、布団から出られなくなった。死んだほうがマシだ、とさえ思った。
そんな時、彼のそばにやってきたのは、彼の叔父さんだった。そして一冊のノートを残してあげた。そこにはこんな言い伝えがあった。
「いま君は大きな苦しみを感じている。なぜそれほど苦しまなければならないのか。それはね、コペル君、君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。」
それに心を打たれたのはその少年と、その本を手にとって読んでいた私であった。
数年前電子書籍の流行りに乗ってKindleを買った。感動のハニームーンも幕を閉じ、結局今は紙の本に戻った。その「両端」を行き渡った経験から、読書の原点に戻った理由を探ってみたい。
まずは電子書籍のメリットを評価してあげたい。
ここ数年Kindleは常に進化していて、この先も期待できるのではないかと思う。
一長一短、電子書籍の強みはすなわち紙の本の短所。それでも紙の本を選ぶわけというのは、以下の点を評価しているからである。
『僕だけがいない街 Another Record』を読んだ時のしびれがまだ新鮮に体内に残っている。あの犯罪者の主観世界の描写が変に受け入れやすく、一瞬自分も犯罪体質があるのではないかと疑うまでだった。それから作者の一肇をフォローし、この度新作『黙視論』を読み終えたところである。
なかなか面白いが、作者曰く、「正直、この小説はある特殊な気概をもつ奇特な方々以外には、あまりおすすめできません。」、とのことで、全員に超おすすめという感じでもない(決して自分だけが特別だと独占したいわけではない)。
ここではあえて本編には触れず、主人公の未尽という女子高生が「言葉を捨てた」行動自体について妄想を走らせたい。
少しコンテキストを足すと(ネタバレになるのかが不安)、「言葉を捨てた」本質的な理由は失うことが怖くて、その気持ちを自分にさえ悟られないように、と本の中で書いてある。
気持ちを自分にさえ悟られないように。その文脈からは、とある気持ちがすでに体内に潜伏し、当て字を選ぶように、その物体に当て嵌まる言葉を自分で悟ることだと考えられる。
さらにその過程を追伸すれば、人間は感情が先立ち、それに相応しいいくつかの言葉が後を追い、その中でもっとも適切なのを(ほぼ無意識的に)選別することで、気持ちのある種の収束ができるということになる。また、その言葉が持っている意味から「未来性」さえ暗示し、それも根強く、そこからの方向転換やその気持ちを断ち切ることが極めて困難になる。
「あの人のことが好きかも」と不意に内心で呟いた瞬間からは、今までのわけのわからない感情がまとまり、そして「好き」というコモンセンスから「ずっと一緒にいたい」という憧景が付属してくる。その未来が約束されないから怖い。ひょっとするとその悟りは「失い始める瞬間」をも意味する。人を好きになれた幸せ、それを得た同時にそこに終止符を打たれたような物語になるかもしれない。
…ならば、言葉が追いつこうとした時に言葉自体を捨てたらどうなる?その感情は着地点を失い、鎮圧され、痛みを感じる前に強制終了されるのか?それともただ悟られないまま温存され、辛抱強く沈黙の中で、いずれくる冬眠明けを待つだけなのか?
これがこの本を読んで一番楽しく吟味させられたことである。
本屋で冒頭の数ページを読んで買うことを決めた。開幕のシーンがよかった。惹かれたっていうか、刺されたって言うか。
わざわざ早朝に一人で車を運転してスキー場にやってきて、パウダーゾーンを狙う主人公、そこに自撮りに難航していた一人の女性スノーボーダーに気づき、シャッターを押してあげることにした。定番の「念のため、もう一枚」という時に、「ちょっと待って」と言われ、その女性はゴーグルをヘルメットの上にずらし、フェイスマスクを下ろした。元々覆われた顔が現れ、主人公はどきっとしたわけだ。その後、女性は密集した木々の間を、雪煙を上げながら滑り抜けていく。あっという間に引き離され、見失ってしまった。残されたのは誘えばよかったと後悔した我が主人公…