2019年3月21日 #book

『死人荘の殺人』の続編。設定も人物もそのまま受け継がれ、ホームズとワトソンが次のミステリ事件に巻き込まれる。

序盤はあまりにもペースが遅過ぎて全然進まなかった。もし前作を読んでいなかったら、恐らく諦めたかもしれない。中盤に入り、(言葉はあれですが)一人目の被害者が出てからは、ようやく勢いが増して、最後の死闘までテンポよく突き進んだ。

前作ほどの衝撃はなかったが、これはこれで、斬新な発想でいい頭の体操になって、けっこう楽しめた。

魔眼の匣の殺人
今村 昌弘
東京創元社
売り上げランキング: 1,290

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余談になるが、ミステリ小説は定義上どうしても謎解きや犯人探しに注力するため、登場人物の内面の描写が欠けている。まだあまりわかってないのに、あっさりと死んでしまったキャラクターもいる。ミステリの部分にウェイストを置かないと、そもそもミステリ小説にならないから、欠けざるを得ないか。

そうするとちょっと問題になるのは、作者が最後にその犯罪動機を開示しても、こっちとしては、それをうまく呑み込めない場合がある。多彩多様な登場人物、せっかくの素材が不完全燃焼でこうも唐突にキックアウトされたり、軽々と犯罪を犯したりして、腑に落ちないというか、もったいないというか、物足りないというか…そんなモヤモヤになることがある。

その消化不良を治すために、本作での何人かの人物について、もう少し自分の妄想を書き伸ばしてみた。生地を揉み伸すように。


👉以下ネタバレになるので、クリックしてお読みください

王寺

「貴重品」をバイクに置いてきた、置くべきではなかったと語る王寺の未練めいた言葉は、何か変だと思った。凶器ではないかと推測したが、それがまさか御守りとは。他にも体には魔除けと思われるタトゥーが彫ってある。三つ首トンネルに行った他の仲間は次々と謎の死に巻き込まれ、彼が唯一の生き残りだった。

そんな彼はきっと恐怖に追われる日々を送ったんじゃないか。もしかしたら、バイクであちこちを駆け回り、少しでも魔除けできる奇人に助けを求めたり、あらゆる御守りをかき集めたりしていたのかもしれない。東京での暮らしを完全放棄し、関西に移転したのも、災から逃げている匂いがする。完全に三つ首トンネルの呪いに心身を潰されてもおかしくないのに、珍しいことに、彼はまだ明るい一面を保てていた。

スポーツが苦手だと悩んでいた純くんには、こう励ました:

「子供の頃は声が大きくて足が速い子が目立つものさ。男らしさってのは、女の子を大事にできることだよ」

読み返したら、彼は確かに紳士だった。臼井に恫喝される神服さん(なぜかここだけ「さん」をつけた)を庇ったり、軟禁と言い出された十色のために弁明したり、葉村くんに代わって、ベッドのない地下の部屋を自ら選んだりした。しかもこんな気の利いたセリフで:「ツーリングでは野営することもあるしね。屋根と布団があるだけで天国さ」。

団体行動でもいろいろと気配りを見せていたが、それは臼井が「呪い」に殺されるまでだった。またの変死に、今まで逃げ続けた、あるいは逃げ切ったと思った呪いに、きっと魂胆も震わせたんだろう。

同じく三つ首トンネルに行ったことのある臼井が、不可抗力の地震に呑み込まれた。命の重さはまるで煙草の吸殻よりも軽い。また、トンネルに行ったほか三人の友人の死は、実はサキミはすでに予知していて、その彼女から、この二日間で男女二人ずつが死ぬと告げられた。さらに、彼の精神崩壊の決定打になったのは、初対面の十色は絵を描いたらそれが現実となり、その都度誰かが死にかかる状況に陥る。彼にしてみればただの謎と驚異の能力者だ。呪いに、予言に、予知。王寺にとっては、これはもうたまるもんじゃない。

そこで、サキミの予知能力を逆手に取り、他人の死でその枠を満たせば自分はこの何重もの呪いから逃げられるとでも思った。そこからは自己正当化しながら、一歩一歩闇に落ちていった。

吉見に来なければ、ガス欠にさえならなければ、彼もまた全然違う人生を送られたのではないか?
運転するんだったら、ガス欠には絶対気をつけよう。。

茎沢

確かに口を開ける度に周りを不快にさせる、短絡的な考え方の持ち主だ。十色の超能力の唯一の理解者ではあるが、彼自身の思い込みが強すぎて、会話は一方通行。

でも彼もまだ高校一年生だ。その歳の、特に男の子にはそれくらい夢中で短絡で愛慕の感情に走らせるのも、ごく普通のことじゃない?

十色への想いは純粋な利他的とは言えないが、完全に利己的でもない。彼は十色のその予知能力に救われ、そして彼女がその能力ゆえにいじめにあったり、不自由な生き方をしたりするのをほっとけなかった。先輩の能力は人の役に立つ、先輩は尊敬されるべき存在であることを世間に証明したかった。今はその証拠集めで、データが揃えれば十色に相談すると言った。

十色は当然それを望んでいない。能力なんてうんざりだ、普通の生活を送りたい。しかし、それを茎沢には伝えていない。彼女もまだ高校二年生、二人とも自分のことでいっぱいで、かつ感情表現が下手な年頃じゃないか。もし、この異常な環境を生き延びて、事件を通して互いに本音を言えたら、彼女の支えになろうとした彼は、きっと真の理解者になっていくんじゃないかな。

十色が悲惨に殺され、彼はきっと自分のせいにしたんだろう。守れなかった。あのとき強引でも先輩を部屋から開放されるべきだった。そして皮肉なことに、結果的には、彼の熱弁した推理は実に正しかった—犯人(王寺)は十色の絵を覗き見して、それに合わせて現場に花をばら撒いたし、サキミもまた嘘をついていた。凄惨な十色の死体の前で絶叫し、失意のまま魔眼の匣を飛び出し、山の奥へと姿を消した彼が、次にみんなの前に現れたときは、腹を引き裂かれ、あちこち齧られた死体となった。

彼は最後、どんな思いをしていたんだろう。悔しい、情けない、怒り、無力。静寂な夜中に山の奥を彷徨い、進み道もなく、戻るすべもなく、凶悪な熊に遭遇し、ぐちゃぐちゃにやられた。尊敬する先輩と、せめて死に方は似ていると慰めを得たのか、倒れる寸前、目に映るいっぱいの星空に、「こんなはずじゃなかった・・・」と嘆いたのか。寒風は彼の涙に籠もる最後の熱を乱暴に奪い去った。

あまりにも無慈悲だ。


他にも朱鷺や岡町についてもカメラを回したいのだが、もう長くなってるから、一旦ここで切ります。

ノンフィクションなのに、なんでこうも惜しむんだろう、ね。

2018年4月30日 #book

屍人荘の殺人

何回も本屋で見かけ、一回読んでみたらドハマった。魔力があるように。

全体的に、とても「現代」の感じが漂う作品だと思う。時代背景も、スタイルも、キャラクターの言葉遣いも。今まで「本格ミステリ」って言ったらパソコンすら復旧していない、「過去」の設定のイメージが多く、小説自体の面白さに影響はないけど、「今」ではないのが多少は距離感を感じてしまう。本作がその「穴」をほどよく埋めてくれて、なおかつ新しい流行りの要素をモリモリ取り入れたのが、読者としてありがたい。

本の序文では受賞の言葉が載せられ、心に響く:「自分の想像で誰かを楽しませたい。その原点を忘れず、これからも邁進したいと思います。——今村昌弘」
そして、ミステリ固有の多数の登場人物を一瞬にして覚えやすくする巧技も、著者の親切心を感じられる。

これから読む方のために、ネタバレを避け、細かく語れないのがもどかしい。これだけはぜひ体感してほしい、というところをあげるとしたら…

  • 「ホームズ」と「ワトソン」を借りて語る友情。
  • 絵になるくらいの詩歌的アクションシーン。
  • 「ゾッとするほどに美しい」、「二度殺し」の正体。
  • 最後に問題提起した倫理観——人間の一番醜い部分を指差して、人でなしだ、許せないって非難することの妥当さ。そこから目を背けたい心。

「人は〇〇に対してそれぞれのエゴや心象を投影する」。その〇〇と対峙するとき、自分はどう映っているのだろうか、なんとなく、その妄想に耽る。

2018年4月20日 #book #reading

Photo by Jessica Ruscello on Unsplash

今日は本屋でゆっくりしながら二冊の本を買った。一冊は小説で、「犬。そこにいるのにいぬ」のダジャレがツボって、もう一冊は「記憶」をテーマにしたエッセイで面白かった。戻って本棚の一番上に置いといたら、「あー😩また積ん読が増えた」と内心で呟いた自分に気づいた。

元々読書は楽しい体験のはずなのに、この拭ききれない罪悪感はどこから生まれたのか?そしてふとこう思った。積ん読は「失敗した買い物、お金の無駄遣い」ではなく、「自分のための図書館を作っている」と、こうやってシナリオを書き換えればずいぶんと気が楽になった。我ながらなかなか良い思考転換だと思う。

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そもそもなんで積ん読という現象があるのか?「時間がない」というのが普通に考えられる理由(言い訳)かもしれない。でも本当にそうなのか?固定な時間の総量の中から、「その本に時間を割り当てていない」と僕は考えている。決してそれを非難しているわけではない。本は「ある特定の空気の流れ」を要するものだと思う。何もファーストフードのように数分で飲み込めるものではない(まあ速読術はあるようだけれど、あれはどうしても抵抗がある)。腰を据えてじっくりと一冊の本と向き合うには、その時の心境とか、ムードとか、心の余裕とか、人生のフェーズとか、ひょっとしたら日差しや体内の糖分と塩分の割合にも左右されるかもしれない。それらが噛み合わないときは、一度「購入」という行為まで至ったとしても、「読む気に今はならない」場合がある。

もしかしたら大多数の方は今日までの僕と同じように考えているのではないだろうか?積ん読はよくないと、贅肉のように減らしたいと。「積ん読」という単語が登場したこと自体、その風潮の表しではないか。でも積ん読という現象は多分存在して当然で、むしろ存在して構わない、わざわざ正当化する必要もないのではないかと、この記事を書きながら悟った自分がこうやって問題提起を試みる。

まず読書は極めて個人的である。個人的な行動にはその人の癖がついてくる。真夏に火鍋、真冬にアイスクリーム、早朝にカレー、深夜にコーヒー。理屈で突っ込むのは愛想がない。その癖が多少ズレたとしても、その人が満足すればそれでいい。少しマイペースで、わがままで、いわゆる「最善・最適の方法」に背けた癖が人間を人間たらしめる。

また、本を購入した瞬間を思い出してみよう。知識の実用性、物語の壮絶さ、装丁のデザイン、流行り物への関心、何かしらに惹かれたのではないか。その高揚した気分が何かに遮断され、読むという行為に至らなかったのは望ましくないことかもしれない。でも逆を言えばそれはその感情を一旦後回しにした、時間の運河に預けたとも考えられる。いつか読書の再開は過去の自分との再会にもなるので、その本に期待していたことを思い出しながら現状と比べるのも面白い体験かもしれない。なので、僕は本を買ったらまず最初のページに日付と場所、そして本屋の名前、もし誰かに勧められたのであればその人の名前も一緒に書いている。後でもう一回ページをくくる時に、「たしかにあの時はあの事情があって、あそこの本屋で買ったんだな」と少し嬉しい気分になる。

最後はぜひ「視野に入る力」を体験してほしい。本棚やデスクなど、目に入るところに置くことでそのリマインド効果は抜群。何かしらの実用性に迫られた時や、何かしらの「答え」を求める時、まだ読んではいないけれど、どの本を読めばなんとなくヒントがもらえそう、そういうふわっとした感覚が強力な盾となる。「常に視野に入る」のと「クラウドにあるから検索すれば出てくる」の両者では、言葉通り天と地の距離がある。まさに身近な図書館。これも僕が紙の本をあえて選んだ理由の一つである。

繰り返しになるが、「自分のための図書館を作っている」と考えて、堂々としよう。積ん読という行為は消えないだろうと思うけれど、「積ん読」という単語とそれに帯びているネガティブな気圧はもう日本列島から消え去ってもいいのでは。いかがでしょう?

2018年4月17日 #book

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

もう昔の本だけど、少し前に読み終わってなかなか面白かった。

『騎士団殺し』を読んでおいたので、村上春樹の小説の「癖」は了承の上というか、心の準備が今回はできた、さすがに😓。ストーリーの伏線は回収されないし、セックスシーンの描写も相変わらずやたらと尺を取る…それらを置いといて、自分探し・自我補完の心の旅がありありと繊細に描写され、途中から一気に加速し、本に線を引く暇もなく読み終えた。個人的にかなり納得のいった物語である。

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ふと一人の友人にこの本を勧めたいと思った。そして、16歳と29歳の自分にも送りたいと思った、こいつはできっこないけれど。

その友人は恐らく仕事は問題なく、むしろ順調に進んでいるけれど、心には深い穴が空いていて、一人になった時の時間の流れに異様な重みを感じているのかもしれない。

そして彼も駅が好きで、また(恐らくはかつてないほど強烈に)ある女性に心が惹かれて、でも恋人という領域には達することができず、その気持をどう抑えればいいのか、あるいは勇気を絞った方がいいのか、分岐点で迷っているかもしれない。

彼がこの本を読んだら何かヒントらしきものが得られるかもしれない。そう願いたい。

また過去の自分に対しても–ルックスにコンプレックスを感じ、何一つ自信と勇気を持てない少年に、人を愛せないじゃないかと自己否定していたアラサーに–同様にそっとこの本を差し出したい。


自分は何色だろう、とこれを読んでから気になっていて、縁があって「色が見える」方にこの前出会えて、診断してもらった。そしたら、「グレーに少しの茶色」と言われた。

大福を思い出した。

2017年12月 2日 #book

君たちはどう生きるか

色褪せない人生の一冊

湧き出そうとする涙を必死に堪えて、雪の積もった道をひとりの少年が狼狽えていた。彼は自分のなしたこと、いや、なさなかったことに悔やんでいた。友達を裏切った罪悪感、取り残された孤独感が押しかけ、連日、布団から出られなくなった。死んだほうがマシだ、とさえ思った。

そんな時、彼のそばにやってきたのは、彼の叔父さんだった。そして一冊のノートを残してあげた。そこにはこんな言い伝えがあった。

「いま君は大きな苦しみを感じている。なぜそれほど苦しまなければならないのか。それはね、コペル君、君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。

それに心を打たれたのはその少年と、その本を手にとって読んでいた私であった。

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漫画 君たちはどう生きるか


最近どこの本屋に行っても、漫画版の「君たちはどう生きるか」が展示され、その景色に圧倒されていた。流行りものへの好奇心で、冒頭の数ページを読んでみたら見事に魅せられ、虜になってしまった。この一冊は今の自分に、将来の自分に、そして次世代に残すべきだと強く感じた。

「君たちはどう生きるか」、一見タイトルからは難しいことを問われ、この体のことは苦手だと、遠ざけてしまう方々もいるかもしれない。そんな心配はまったくないと証言しよう。何しろ、元々は戦時の少年向けの本なので、その誰しもが困惑で動乱な時代背景で、「人間として立派な人生をどうやって生きるか」ということを極めてシンプル、かつ深みと温かみのこもって書かれた名作である。

そして、15歳の少年のコペル君の日常に焦点を当てる、その切り口も絶妙だと思う。学校は社会の縮図であるように、我々社会人はただ違う制服と肩書きを被るだけで、そこに感じさせる喜怒哀楽は同価同質のものである。さらに、漫画という媒体で繊細かつ無造作にその物語を再現して、より容易く大衆に浸透できるんじゃないかな。(そして私みたいに漫画読んでからそのまま原作の本を買う流れもありだし)

さて、一つだけ、自分の収穫を紹介するとしたら、それは感謝の気持ちである。
決して当たり前のように思ってはいなかったが、ごく普通に学校に行くことができ、教育を受けて人生の基盤を築いたことを実させた親に——
朝晩食事の支度をしてくれて、帰る場所と帰る意味をくれて、こうやってじっっくりと本を読んだり、ものを書いたりすることができる、暖かい家庭を支えている妻に——
順調とは言えない職場だが、衣食住に困らず、生き残るために自分の信念と意思を妥協することもなく、自分のままでいられ、その生活のインフラを提供してくれている会社に——

ありがとう。

いくらでも恩にきる人々の顔が頭をよぎるのだが、本の紹介の話から逸れるので、ここでは割愛する。

一年の終わる頃にこの本に出会えて本当によかった。読み終わって全身から何かが湧き出そうとしていた、それは勇気・感動・共鳴の極みだろう。名作に震撼されるってこういう感じなんだろうな。きっと今後もお世話になり、その度に新しい学びと悟りがあるだろう。

決して軽々マーケティングのためにこの言葉を使わないが、私はこの本を絶賛する。

2017年10月29日 #book #opinion

数年前電子書籍の流行りに乗ってKindleを買った。感動のハニームーンも幕を閉じ、結局今は紙の本に戻った。その「両端」を行き渡った経験から、読書の原点に戻った理由を探ってみたい。

まずは電子書籍のメリットを評価してあげたい。

  • 携帯性:物理的にスペースが取らない;どこでもいつでも、どのデバイスでも本が読める
  • 検索性:キーワードだけ思い出せば簡単にその箇所を特定できる
  • メモ:気になったところを簡単にハイライトでき、またそれをウェブで読み返したり、例えばEvernoteにエクスポートもできる
  • 辞書:わからない単語はその場で意味を調べ、それがフラッシュカードに登録され、後に復習できて、洋書を読む時超助かる
  • 配布:本屋で取り扱ってない洋書でもデジタルなら容易に入手できる

ここ数年Kindleは常に進化していて、この先も期待できるのではないかと思う。

一長一短、電子書籍の強みはすなわち紙の本の短所。それでも紙の本を選ぶわけというのは、以下の点を評価しているからである。

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ランダムの共有性と情報の伝達性

子供の頃、家の本棚には常に本がいっぱいあった。歴史、古典、パソコンなどどちらも父の趣味の本で、私は漢字が読めるようになってから勝手に本を取って読むようになった。その一冊一冊の本の影響の積み重ねがあるからこそ、今の自分がいると思う。

という筋書きで、自分の将来の子供にもそれを経験して欲しい。だから紙の本を買うのは一つの長い投資とも言える。家の本棚が暗黙的に次世代に影響と刺激と何かしらのきっかけを与えれば、十分のリターンではないかな?(一人の友人は、「子供に読んでほしい本」を判断基準にして本棚を整理していると聞いている。)

視野に置いてあるだけでランダムの共有性と伝達性があるのが紙の本の強みではないだろうか。もしiPadを子供に渡したらどうだろうか?ワンタップで素晴らしいゲームの世界に行けるから、そこでわざわざ電子書籍リーダーを開いて、本を探すエライ子供はいるのだろうか?

Eighty percent of success is showing up. (成功の80%を決めるものは、顔を出すこと。)

この名言のように自分にとっても子供にとっても、本が常に目に入るところにあることは大きな意味があると私は信じる。

二度読みと空間記憶

これは誰かも経験したことがあると思う——なんとなくこの本のここらへんのページの、左下にこういう内容が書いてあった、みたいな記憶。

紙の本だからその内容も、行間も、誤字も、全て変わらない。改行やスペースやマージンなりで人間はその「空間」・「視覚構造」自体を覚えられると、どこかで読んだことがある。本当に不思議だけど、何かを探したいときには大体感覚でそのページにたどり着ける。

その反面、電子書籍はページのレイアウトが可変であり、前回読んだ時と後で開いた時に必ず同じレイアウトになるとは限らない(同じ端末でフォントサイズを変えなくても)。「記憶の改竄」と言ったら大げさだけと、行間に凝縮された思い出は居場所を無断に変えられたような、後味悪い気がして仕方がない…(この意味で電子版の漫画はアリだと思う、紙のレイアウトと一致して不変だから)

本によるコミュニケーション

本を借り貸しすることで自然に会話が生まれる。読了して本を返すことはつまりもう一回合って、お互い感想を述べ会うことを意味する。内向な私にとっては大事なコミュニケーションのきっかけである。そしてある種「同じ体験」をした同士として、妙に親近感が生まれる(私が一方的にそう思うだけかもしれないが)。

ハンディカップからの逆襲

スペースとるから一本一本を丁寧に評価して買う。
積ん読のほとんどは電子版の本である。何せよ買って忘れる事案が多々発生してしまっていた。

所有感(個人差あり)

やはり物質的なモノを所持することにより、何かしらの達成感が芽生える。先祖から引き継いだこの感触はまだ電子の発展に追いついてないということなんだろう。簡単に言えば自己満足なだけかもしれない。


これらは完全に電子書籍を破棄せよと主張しているのではなく、あくまで1つの体験談として受け取っていただければと思う。本当にいい本は一度きりの体験ではなく、何度も繰り返し読みたいから自分の性と目的に合う媒体を選べばいいかなと思う。

2017年10月 8日 #book

『僕だけがいない街 Another Record』を読んだ時のしびれがまだ新鮮に体内に残っている。あの犯罪者の主観世界の描写が変に受け入れやすく、一瞬自分も犯罪体質があるのではないかと疑うまでだった。それから作者の一肇をフォローし、この度新作『黙視論』を読み終えたところである。

黙視論

なかなか面白いが、作者曰く、「正直、この小説はある特殊な気概をもつ奇特な方々以外には、あまりおすすめできません。」、とのことで、全員に超おすすめという感じでもない(決して自分だけが特別だと独占したいわけではない)。

ここではあえて本編には触れず、主人公の未尽という女子高生が「言葉を捨てた」行動自体について妄想を走らせたい。

少しコンテキストを足すと(ネタバレになるのかが不安)、「言葉を捨てた」本質的な理由は失うことが怖くて、その気持ちを自分にさえ悟られないように、と本の中で書いてある。

気持ちを自分にさえ悟られないように。その文脈からは、とある気持ちがすでに体内に潜伏し、当て字を選ぶように、その物体に当て嵌まる言葉を自分で悟ることだと考えられる。

さらにその過程を追伸すれば、人間は感情が先立ち、それに相応しいいくつかの言葉が後を追い、その中でもっとも適切なのを(ほぼ無意識的に)選別することで、気持ちのある種の収束ができるということになる。また、その言葉が持っている意味から「未来性」さえ暗示し、それも根強く、そこからの方向転換やその気持ちを断ち切ることが極めて困難になる。

「あの人のことが好きかも」と不意に内心で呟いた瞬間からは、今までのわけのわからない感情がまとまり、そして「好き」というコモンセンスから「ずっと一緒にいたい」という憧景が付属してくる。その未来が約束されないから怖い。ひょっとするとその悟りは「失い始める瞬間」をも意味する。人を好きになれた幸せ、それを得た同時にそこに終止符を打たれたような物語になるかもしれない。

…ならば、言葉が追いつこうとした時に言葉自体を捨てたらどうなる?その感情は着地点を失い、鎮圧され、痛みを感じる前に強制終了されるのか?それともただ悟られないまま温存され、辛抱強く沈黙の中で、いずれくる冬眠明けを待つだけなのか?

これがこの本を読んで一番楽しく吟味させられたことである。

2017年9月 4日 #book

村上春樹のノンフィクションは読んだことがあって、その独特の文体に日本語の感度が刷新された(惹かれたとも言えるだろう)。『騎士団長殺し』は初めて読んだ彼の小説で、感想といえば、ブラックコーヒーを頼んだのに中途半端にミルクが混ざっていて、どちらとも言えない味。豆はトップクラスなのに、若干残念な気持ち。

具体的に分析するには、とりあえず文章力とストーリーの構成の二つの側面に分けないといけない気がする。

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文章力は言うまでもない。自分好みの絶品の「豆」の味。前に読んだ『職業としての小説家』と一貫した筆風、コンテキストがフィクションに切り替え、人間の心理とか細かい物事の関連付けや比喩などは大変楽しめた。

ただ問題はストーリーにある(あくまで個人的な感想として)。「こんなの期待してない・・!」というのが本音。「こんなの」というのはつまりその「霊的な」イデアのこと——いつでも自由に現れ、主人公にしか姿を見せず、その姿かたちも自由自在に変換でき、あえてタイトルの騎士団長の容姿を借用していて、論理的に説明のつかない(詳しく説明したくもない著者の意図も含めて)その存在が、予想外だった。

サイエンスフィクションを読むつもりでこの本を選んだわけではないし、むしろちゃんとしたサイエンスフィクションなら何かしらその背景や世界観と成り行きを読者にきちんと教えるはずだけどね。単純に「村上春樹の小説の世界」を「初見」したものとして驚いた、この「不親切さ」に。

私自身、何の霊体験もなく、ごつ普通に生きてきたので、本の中に現れるこのわけのわからない「霊的なもの」(失礼)により、物語が変わり、実世界に影響を与えたようでなかったような、どう解釈すればいいかを悩んでいた。果たして主人公のその「神秘な国」への旅、あの地底の暗い横穴をくくり抜いたことにどんな意味があったのか、それが何で普通の人間世界の一室に閉じ込められた少女を救ったのか、関連付けがなかなかできなかった。そして著者にはそれを説明しようという姿勢もなく、理屈と論理的な「輪」を閉じることができなかった。もしかしたらこれは二週、三週してやっと線が繋がる設定かもしれないが、この長編をもう一回読もうとは思わない(少なくとも今は)。

絵に喩えるのなら、その技術で肖像画でも風景でも写実的に描けば素晴らしい絵になるのに、理解に難しい抽象画ができあがったイメージだ。それ好みのグループには受けられるかもしれないが、大衆向けとは言い難い。

もしかしたら、『職業としての小説家』で書かれたように、「小説が書けるかもしれない」と悟った時の著者の体験をこの小説で再現したかったのかもしれない。

それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした…平たく言えば、「ある日とつぜん何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。(42ページ)


少し間を開いてからはこう考えるようになった。あれをある種「自分の体験したこと」にすれば何となく一つの決着にたどり着けそうな気がしてきた。

この第一人称で書かれた「私」を自分のことに入れ替わり、「私が妻と別れて、山奥に一人で数ヶ月住んでいて、私に向けて鳴らされている鈴の音を拾い、謎めいた穴を開いて、騎士団長のイデアを解放し、やがてはやらないといけないことをこなし、(一見どこでどうつながっているかはわからないが)、自分の起こした行動できっとあの少女は救われた、そうしなければ危なかっただろう」と、ストーリーに何の「調味料」も加えず、そのまま「自分」という容れ物に入れてみたら、釈然とした。そういう世界もありえるかもしれない、そういう不可解なことはあってもいいかもしれない。人が強く何かを望めば、現実と非現実の境界線を動かせるかもしれない、と。

全ての伏線を回収しなくてもいい、少なくとも今はそうしなくてもいい。頭の回転と連想が追いついてないのは仕方ない。分からなければならないものでもない。いつか自分で悟るか(その見込みは全くない)、誰か詳しい人に説明されるか(自分からは聞かないだろう)、流れに任せよう。


余談その一

この肖像画を書く絵描きの主人公の仕事ぶりもなかなか面白い。

生計のために肖像画を書くようになったが、それなりに自分の流儀のようなものを貫いている。依頼を受けてからは依頼主と面談して、その人の光るものを見つけ、(脳内で)スケッチを何枚描いて輪郭を捉え、キャンバスに荒っぽい「骨格」を落としてからはスツールに座ってただじっと絵を眺め、作品の「訴え」に耳を澄ませ、寝かせて自然に膨らませ、「今日はここまででいい」と言ってあっさり上がるワークフローを、具体的に、ありありと再現した。アーティストのみならず、クリエイターの方々ならどこかで共鳴できるところは絶対あるだろう。

例えばこのブログでの記事も似た過程を得て生まれる:あるトピックの種を掴み、スケッチして大まかな構成を練り、書き出したドラフトを眺め、繰り返す編集で肉付けしては贅肉を削ぎ落とし、最後にやっと公開される。(収入にはつながらないけど)

余談その二

この本は知り合いの先生から借りたもので、その先生は村上春樹の小説とエッセイを通読している。その時の会話がこんな感じだった。

「先生、この『騎士団長殺し』はどうでしたが」
「ん。。イマイチだったかな」
「そうですか、ちょうど本屋で見かけて、買って夏休みの時に読もうと思ったんですけど」
「貸してあげるよ」
「あ大丈夫ですよ、どうせ買おうと思って」
「いやいや、買うほどではない」
「…」

「買うほどではない」、それが思いのほか響いている。ので、まだ自分で買いってはいない。

おまけ

207ページの内容を引用(男性にしか効かない質問)。

「こんなことをうかがうのは、失礼にあたるかもしれませんが、ひょっとして、奥さん以外の女性がどこかで、密かにあなたの子供をもうけているかもしれないという可能性について考えてみたことはありますか?」

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
2017年3月18日 #book

本屋で冒頭の数ページを読んで買うことを決めた。開幕のシーンがよかった。惹かれたっていうか、刺されたって言うか。

わざわざ早朝に一人で車を運転してスキー場にやってきて、パウダーゾーンを狙う主人公、そこに自撮りに難航していた一人の女性スノーボーダーに気づき、シャッターを押してあげることにした。定番の「念のため、もう一枚」という時に、「ちょっと待って」と言われ、その女性はゴーグルをヘルメットの上にずらし、フェイスマスクを下ろした。元々覆われた顔が現れ、主人公はどきっとしたわけだ。その後、女性は密集した木々の間を、雪煙を上げながら滑り抜けていく。あっという間に引き離され、見失ってしまった。残されたのは誘えばよかったと後悔した我が主人公…

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このオープニングは結構好きだな。もし最初から顔が見えてしまったら、また話は全然違うテーストになるだろう。この全く期待感のない、無防備の状態で急に好みのタイプの女性が実は目の前にいたという「発見」に、男は弱いかもしれない。

ストーリーの舞台はスキー場だが、僕みたいな全くスキーやスケボーの経験がない人間にも十分楽しめた。「パウダーラン」とか、「未圧雪の上級者バーン」とかの専門用語も知らないし、「孫悟空の筋斗雲に乗っているような浮遊感と疾走感」とかも体験したことがないけど(体験したいとは言ってない)。

人を殺してないのに訳あって逃げないといけない、警察なのに訳あってバッジを見せて堂々と捜査することができない、こういう巧妙な場面を作り出したことがすごいなと感心した。

構成上二人の大学生とかれらを追う二名の刑事、それにスキー場の人達という、大きく三つのグループに別れてて、章ごとに交互にそれぞれのストーリーが書かれてる。誰が主人公という設定はないと言ったほうが正しい。タイムリミットがある中、それぞれが自分の立場から真実を求めていくのが、とにかく面白かった。ただ登場人物が多いせいか、キャラが成り立ってない、存在感が薄いなどの印象もある。


全体的には読みやすかったけど、読み終えて少し吟味すると、やはり違和感を感じた部分があった。あくまで個人の感想なんで、別に批判したいわけではないので、軽く読み流す程度で読んでください。(ネタバレあり)

一番大きな違和感は「女神」ーーすなわちアリバイを証明してくれる、シャッターを押してあげたその女性ーーの正体が最終的にわかった時、アンチクライマックスな気がした。それは読者が中盤に「あ、この人か!」と簡単に予測できないように、配慮したかもしれないが、そもそも「女神」本人に対してあまり書けないから、「女神探し」というメインストーリーの最後は、「あまり知らない人が女神だった」、のような後味の悪いエンディングになってしまったのが、個人的にすごい残念だと思う。

この三日後には花嫁になる人、たまに登場するときのリンとした話ぶり、落ち着いた雰囲気、スキー場のために身を削るという人物像と、あのミステリアスの「女神」ーーハート形に見える山を背景にピースサインを出して自撮り、主人公に「バッチリです」と言って指で輪を作るという仕草、この落差がどうしても受け入れがたい。第1章で「誘えばワンチャンあり」の雰囲気を出したのがよくなかったかもしれない。

ぶっちゃけ、「女神」より旅館の女将さんや妹の友人の千晶の女性キャラクター達のほうが、もっと前に出ているという矛盾があるのでは、と思った。せっかく最後に「女神」を見つけたのに、物足りない感が半端なかった・・・

あとは刑事の上司の南原があまりにも単調すぎて、普段はうるさいけど実は最後に部下をかばう立派な男かも、とちょっと期待したんだけど、結局ただのステレオタイプの嫌な人で終わった。


後半色々と文句をいったふうに書いてるが、小説自体は悪いとは言ってない(笑)。こう言った「気づき」も読書のワンセッションだと思って、整理して書き出した次第 😄

2016年12月 2日 #book

これは伊藤計劃の二作目の作品である。前作「虐殺器官」の続編とも言えるけど、読んでなくても本作は十分楽しめる。先端技術を使った戦闘シーンはない分、世界の壮絶さとエンディングの吟味具合は最高だ。

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世界観

冒頭を読んで少し心配してた。「ハーモニー」というタイトル、三人の女の子、大人になりたくないと社会に文句を言う始まりから、もしかしたらそこらへんのアニメと似たような平和ボケのストーリーかと思ったら、20〜30ページ読んでどこか「安心」した。「真綿で首を絞めるような、強権的な優しさに息詰まる世界」、じわじわとその息苦しい世界観が伝わってくる。

時代は「大災禍(ザ・メイルストロム)」の後、世界中に混沌と騒動が起きた後、ようやく平和を手に入れた人類は、二度とこんな大惨事が起こらないように肉体と精神の極限なハーモニーを求めて、「生命主義」の端までたどり着いた。医療技術の進歩で人間は事故と老い以外は死なないようになり、その対価に成人になると体内にWatchMeというものを入れられ、身体の状態データからあらゆるプライバシーのデータまで常に政府の次形態である「生府」に送り続ける必要がある。

つまり自分の行った場所、聞いた話、見た景色全てが監視されている。今の常識から見ればありえない話だが、それでもそういうプライバシー侵害の心配を遥かに上回るように、社会は平和と慈愛に満ちいるから誰も気にはしない。「心的外傷性視覚情報取扱資格」、映画を見るには、暴力的な資格情報に接するには、法的に定められたこんな資格が必要になってくる。人は喧嘩や紛争すること自体忘れているかもしれない。

面白かったのが、「プライバシー」という単語はその世界で「やらしい」というニュアンスに進化してしまった。自分の年齢、職業、社会的評価点数など、ほとんどの情報が公開している以上、唯一残されているのは、もはやセックスする行為のみ。

誰もが優しくて、健康で、人思いの理想郷とは相反に、妙に子供たちの自殺率は上昇する一方。「優しさは、対価としての優しさを要求する」。子供はこの重たる「空気」を鋭く感知し、憂鬱になり、追い込まれた末、自ら命を絶つことになってしまう。主人公もそれを図ろうとした大勢の子供の中の一人。

主人公の執念

霧慧トァンは螺旋監視官という生命主義の中で最もエリートの職に就いていながら、職権濫用までしてタバコや酒を手に入れようとしている(これらのグッズは生命最高主義への一番な冒涜で、で完全に貶されるものとなり、通常ルートでは入手できなくなっている)。その執念は13年前の親友の死から始まっていた:一緒に自殺することで誇り高く生命主義に対して皮肉で致命的な一撃を加えようとしたが、親友をなくし、自分だけが生き残った。「なんで私は死ねなかった」と、自分で自分を苦しめ、この無念から物語はどんどん展開する。

そして世界的な「大事件」が起きる。それを読んだ時の衝撃はよく覚えている。不意打ちを食らった後は、ひやひやしてた。背筋に冷たい刃物を「ぐさっ」と刺し込まれたたような感触だった。文字だけでここまで伝わるものかと感心する。

醍醐味

一番の醍醐味はやはり「意志とは」、「進化とは」の哲学的な議論だ。テクノロジーが極めて発達した世界で、論理や自我の矛盾はより対立となり明確になる。これこそがSFの醍醐味で、伊藤計劃の得手だと思う。

何を持って「私は私である」と言えるだろうか?こう質問されて脳内で何かの答えを探ろうとして、「とある声」が勝手に鳴るだろう。この「内なる声」ー街を歩いても、ごはんを食べても、人と社交しても、このブログを書いている最中も、これを読んでいるこの瞬間も、常に脳内を迂回するこの声ーこの声こそが「私の意志」なのか?この「声」をなくしたら「意志の消滅」と言えるのか?その時人間はどうなるのか?こんな質問と議論が物語の中に潜んでいる。

数日後、妙に前友人と飲んだ時のことを思い出した。二次会の時にその友人は普通に喋って普通に飲んでいたのに、次の日には全く覚えてないと言ってた。途中から酔って記憶が飛んだらしい。つまりその間は「自動運転モード」に入ってるってことだ。その時の振る舞いは、果たして本人の意志と言えるだろうか、それともただ空白なのか?もし一瞬全世界が「自動運転モード」に入ったらどうなるんだろう?

この質問の余韻に浸って僕はもう一回本の世界に飛び込んだ。


諸々雑談

この本は2008年に書かれたらしい。今から8年前。時代の先読みがすごかった。ARとVRの世界、プライバシーの公開と漏洩、近年の話題が作品に先越されたような感じだった。

少し残念だと思うのが、章と章の繋ぎが弱いと感じた。せっかく章の終わりにフルスピードで突っ走ったレーシングカーが、次の章ではまたゼロからゆっくりとスタートラインを切るような感じ。

第一人称へのこだわりは最後のインテビューに掲載されている。一人称と三人称の優劣は村上春樹の「職業としての小説家」にも触れてあって、作者が何を評価してその手法を選んだか、これは興味津々。

色々面白い一行知識もある。例えばナチスとヒトラー

ヒトラーの母親は乳癌で死んだ。医者はユダヤ人だった。だからヒトラーのユダヤ人憎悪はそこに端を発している。ホロコーストはヒトラーの母親の乳房から生まれたというわけだ。右か左かは知らんが。
(ページ214)

映画もあるので、小説を読んでから観るとよりその世界の肉付けができるからおすすめ。ただし映画では百合になっていて、原作とだいぶ味が変わるから気持ち悪かった。「親友で同志でカリスマの存在」を失くした痛みと「ただ」好きな人を失くした感情とは、レイヤーがそもそも違うから。

瑕疵は多少あるけど、全体としては十分よかった。これで伊藤計劃の三部作のうち二つは読んだから、残りの「屍者の帝国」も楽しみだ。